松島塾
松島を愛する人のための教科書
おくのほそ道を歩く

「曽良随行日記」と「おくのほそ道」について
 芭蕉は弟子の曽良と共に北へと旅立つ。

「おくのほそ道」は紀行文の体裁をとっているが、実際は旅に取材した文学作品(一種の小説)である。

フィクションや挿話をふんだんに入れた創作であって史実そのものではない。

昭和18年に斎藤浩介氏蔵の原本を山本六丁子氏が「曽良奥の細道随行日記付元禄四年日記」と題して翻刻するに及び学界の注目をあびることになった。

曽良随行日記が翻刻されてから曽良日記の方が事実を克明に記録したもので、芭蕉の「おくのほそ道」はそれを下地にした文学作品として構成しなおされたものであることが誰にでもわかってきた。


なお、斎藤氏蔵の「曽良随行日記」と「奥能細道」が桐の箱に入って保存されていたものを杉浦正一郎氏が譲り受け現在は、天理図書館にある。これが「曽良本」である。

村松友次氏の研究によればこれこそ芭蕉真筆の「おくの細道」だと推論している。どれが真本かについては諸説があるのでそれを後に紹介する。

芭蕉について
 芭蕉は寛永12年(1644)伊賀上野赤坂町(三重県上野市赤坂町)に生まれた。幼名は金作、長じて忠右衛門宗房のちに通称を甚七郎と改めた。

父は松尾与左衛門といい無足人であった。無足人とは「村里有名の家」で苗字帯刀を許され准士分として待遇されたものをいう。織田信長によって天正9年(1581)に母方の伊賀忍軍(百地)は殲滅(せんめつ)されている。

焼土侵攻された忍軍と共に地侍の中でわずかに土民化した在地土豪の中に松尾氏がある。それが近世の藩政時代に入り藤堂家の融和懐柔策のもとで無足人の制に組み入れられる。土着の郷士反乱を企てれば、小さな藩の一つや二つはいつでもつぶされる。在地土豪は厄介な存在なのである。そこで作られたのが、無足人という制度である。無足とは俸禄の給付のないことである。芭蕉は藤堂藩伊賀付侍大将藤堂七郎家に武家奉公したが、藤堂家の嫡子良忠が寛文6年(1666)に25才で亡くなると同時に藤堂七郎家を去った。だからといって封建時代にまったく個人として自由になれるわけはないのである。


 俳諧の道に入ったのは良忠の影響であったともいう。芭蕉が旅に生きたのは貞享元年(1684)8月いわゆる「野ざらし」の旅に出てからでその後死ぬまでの10年間が旅の生活であった。
 3月に深川を発ち伊勢に立ち寄り9月8日に故郷に帰り着く。母の墓参をし、江戸に戻るのは貞享2年(1685)4月末のことであった。

芭蕉の父は芭蕉が13才のときに亡くなっている。貞享4年(1687)には「笈の小文」の旅に出ている。元禄2年(1689)芭蕉は曽良を伴って「おくのほそ道」の旅に出る。


それは芭蕉が思慕してやまない西行の五百年忌にあたる年であった。



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