松島塾
松島を愛する人のための教科書
おくのほそ道を歩く

芭蕉は忍者か神か人間か
俳聖芭蕉という。

 そのような側面は確かにある。


 もう一方の芭蕉の姿を指摘する説もある。即ち、芭蕉の出自から来る逃れられない生涯の任務を指摘する説である。

 芭蕉の家は、無足人の地位を失ったとはいえ、代々「中忍」の家柄である。松尾家は甲賀忍者の服部家の系統であり、母方は伊賀忍者百地の系統である。信長の時代甲賀と松尾家は信長と内通し伊賀を攻めた。1582年のことであった。芭蕉が生まれる三代前の出来事であった。母方の百地は父方の服部に負けている。この和睦をするのが40年後のことであった。芭蕉の父母が結婚するのは1630年ごろのことである。伊賀忍軍の宗家は三家ある。服部、百地、藤林である。芭蕉は服部と百地を親族とする中忍の一族である。松尾家の元の領地柘植(つげ)は、甲賀と伊賀の境にある。近江(滋賀県)と伊勢(三重県)は領主が違い利害の相反することが多かった。柘植は微妙な立場にある。松尾家は田畑もある資産家である。松尾家は柘植七党の一党で土着の無足人であった。しかし、芭蕉の父与左衛門は青年の頃父祖の地を離れ無足人資格を失い伊賀上野の赤坂に移住した。これとても個人の理由だけとは言い切れない。

 一定の任務をもって一族が移住しているとも考えられる。新しい時代に最も情報通の忍軍の移動である。ただの百姓衆の移住とは違う。しかし、何一つ証拠はない。証拠を残さないのが忍軍の行動である。芭蕉が、何の任務もなく江戸に出るわけがないともいう。忍軍の掟は何代にもわたってもかわらない。

 個人の事情で変えることなどは決して許されない。

 まして封建時代には忍軍の次三男は本家のために尽くすのが本分であって、自分の都合で生きることなどは許されない。高度な情報収集能力によって生き抜くのが忍軍の役割である。本家の人間は一歩も外に出なくても日本国中の情報はすべて手に取るように分かる。
 それが「忍び」を生業とするものの常である。芭蕉は、俳諧の道を追求するために旅に出る。同時にその見聞を報告する。共に利害は一致する。


 芭蕉は、特別のことをするわけではなくとも諸国を見てきただけでいいのである。報告書代わりに旅日記を献上する。それがすぐれた芸術作品の域まで達しているものであっただけだとする見方もある。だから芭蕉は忍者であったかどうかは作品とは関係がないと考える。


  芭蕉はそのような家の問題を超越して生きた。俳諧の道を探求するものとして生きる道を選んだ。


 しかし、芭蕉の周りには多くの人が訪問するので幕府からにらまれないように何度も住居を変えたのだとする説もある。芭蕉は俳諧の道を自らの一生の最も大事なものとして選んだ。
 同時に出生によって定められた掟もそれなりにあたりさわりのない様にこなしたとみられるともいう。どこまでが正しいのかは芭蕉以外には分からない。またそれでいい。


  よけいなことは詮索しなくてよいのである。


  芭蕉の魅力はそのような神秘性と作品そのものの魅力にある。そしてまた何があろうと「おくのほそ道」の文学的価値は変わらない。人間には様々な側面がある。様々な側面を持ちながら自分の道を追求していく。それが人生ではないだろうか。様々なしがらみの中で生きていく。それが人間である。


  芭蕉を神格化する人々は、芭蕉には家族も無く結婚したこともないという。

  しかし実際には、芭蕉の弟子野坡(やば)は寿貞を「翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり」と言っている。本当かどうかは分からない。猶子(ゆうし)桃印(とういん)は姉の子を引き取ったのだという。
  また、長男次郎兵衛、長女おふう、次女おまさも日本橋か深川で生まれたという。妻の病や病没に悲しむ手紙も見つかっている。それなのに芭蕉信奉者は神格化するために家族を故意に消し去っているという。

  芭蕉を俳聖としてあがめ神格化しようとして芭蕉神社(松尾神社)が各地に建てられるのは明治初年の頃である。

  これは明治政府が国民教化策のため教導職をもうけたためにおきたことである。教育政策を遂行するために明治政府は神官主導による大教院を設けた。
  このとき、全国的に神官と僧職を教導職に任命したが教導養成が間に合わず、にわかに俳諧の宗匠を教導職に任命した。


  俳諧師が社会的に高く評価されると俳諧師は俳諧明倫社を結成し十二月十二日を祖霊神大祭と定めた。祖霊神とは俳諧の祖先である芭蕉のことであった。こうして各地に松尾神社(芭蕉神社)が建てられた。


  芭蕉は人間ではなくなってしまった。正岡子規は神格化した芭蕉を否定し蕪村を高く評価した。


  子規は芭蕉の俳諧の句は高く評価するが芭蕉は神様ではないと言うことを正しく訴え、俳諧を見直し、新しく「俳句」を提唱したのである。



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