松島塾
松島を愛する人のための教科書
おくのほそ道を歩く

芭蕉と旅
 「おくのほそ道」は、芭蕉にとって「生きるあかし」を求めるためのやむにやまれぬ句作の旅の記録である。

 俳諧の宗匠としての安定した生活を捨て漂泊に身をさらし、俳諧の発句を身を削るようにして詠む。芭蕉の創作の旅は一期一会の旅であり命がけの旅である。そのような緊張した生活の中に身を置くことによって初めて真の句を詠むことが出来る。
 一点のごまかしもなく妥協のない生活の中でこそ句を詠むことができる。

 芭蕉が俳諧にかける情熱は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」というほどの凄まじいものなのだと識者はいう。

 芭蕉は歌枕や史跡をめぐりながらその風土に染みついている古人の詩魂と邂逅し、その物語ることばに耳をかたむける。そして、静かに回向(えこう)の一句を手向けて廻る。
 行雲流水に身を任せ巡礼者として浮き世の旅をする。古人の亡魂や山川草木の精霊からその声を聴く。世俗的な冥利を捨て、乞食行脚の巡礼の旅に徹する。古人の歌もまた天地と等しく永遠性を持つものとして身をもって体感する。芭蕉は旅の詩人として句作に精魂を傾け尽くす。


 芭蕉は延宝8年(1680)37才の冬、俳諧宗匠としての地位を確立するとともに市中を去って隅田川の対岸の新開地深川の草庵に入る。
 俳諧の宗匠の中には生活の資を得るために御機嫌を取り結ぶものもあり「座敷乞食」とさげすまれるものまであらわれた。芭蕉はそれを嫌い宗匠の立場を捨てる。そして自らを「風雅の乞食」と称し漂泊の旅に出る。談林俳諧(西山宗因流)の低俗性を乗り越える道を李白・杜甫に求め草庵も杜甫の草堂になぞらえて「泊船堂主」と著した。

 芭蕉庵への入庵は杜甫・蘇東坡(そとうば)の風壊を生活の中からとらえていくための芸術的実践でもあった。それこそ生活の芸術化の営みにほかならなかった。しかし、芭蕉は杜甫が持ったような政治への志は持たなかった。

 ただひたすら「侘(わび)を楽しむ心を詠ずる」・閑寂な自然を相手に孤独寂寥に徹し豊かな精神を培う。

 そして中国の詩人たちの心に少しでも近づきあやかろうとする。漢詩文の中から漢土的風物を読みとり自然美への眼を開く。歌枕の伝統を負った日本の風土の中に自然の美を求める。そして漂泊の旅の中に自らを置き、一切の功利的色彩を消し去り純粋な芸術的実践の営みとした。

 元禄2年(1689)芭蕉は46才の春から秋にかけて奥羽・北陸地方の旅に出た。日数150日、旅程600里(2400km)に及ぶ旅である。

 紀行文「おくのほそ道」には3月27日に江戸を出発して9月6日美濃の大垣より船に乗って伊勢の遷宮を拝みにでかけるところで終わっている。


「おくのほそ道」の旅に出るにあたって芭蕉は「今年の旅はやつしやつして菰(こも)かぶるべき心がけにて御座候」と乞食行脚(こつじきあんぎゃ)を心に期していた。

 芭蕉は西行・宗祇らを理想としさらに平安中期の聖僧増賀(ぞうが)の「名前を捨てて諸国を放浪した姿」をそこに思い起こしていたという。芭蕉は「行きかう月日もまた旅人なり」という。芭蕉のこころは時空を越えて21世紀の私たちに話しかけてくる。


  従来は、だいたい上のような評価が妥当とされてきた。ところが近年芭蕉についていろいろなことが分かってきた。


  「おくのほそ道」をはじめ、芭蕉の著作は芭蕉の生前は世に出されなかった。芭蕉は「おくのほそ道」は伊賀上野にいる兄の為に書いている。

  自分の生きている内に世に問うつもりは更々ないのである。

  現在の作家とは大きな違いがある。「おくのほそ道」も芭蕉の死後に出版されている。



松島塾内文章の無断転載を禁じます。

 

トップページへ
松島探訪
 ┣ 松島の句碑・歌碑
 ┣ 松島寺滅亡記
 ┣ 品井沼干拓の歴史
 ┣ おくのほそ道を歩く
 ┣ 松島風土記
 ┣ 松島の山野草
 ┗ 拓魂碑について
旅行記(見聞録)
[歴史・歴史物語伝記・他]

おくのほそ道を歩く
おくのほそ道を歩く]

はじめに
 ┃
おくのほそ道
 ┣ 発端
 ┣ 行程
 ┣ 五月六日(陽暦6月21日)
 ┣ 五月八日(陽暦6月24日)
 ┣ 多賀城碑
 ┣ 末の松山・塩竃
 ┣ 五月九日(陽暦6月25日)
 ┣ 松島
 ┣ 雄島
 ┣ 五月十日(陽暦6月26日)
 ┣ 「江戸より百里」(一里塚)
 ┃
芭蕉と旅
 ┃
芭蕉は忍者か神か人間か
 ┃
「曽良随行日記」と「おくのほそ道」
 ┃
芭蕉について
 ┃
俳諧の発句と俳句について
 ┃
「おくのほそ道」の書名表記
 ┃
「おくのほそ道」の芭蕉自筆本の研究
 ┃
あとがき・参考文献

メール
ご意見・ご感想はこちらでお願いします
日記
著者の日々の記録
プロフィール
著者紹介
リンク
リンク集