松島塾
松島を愛する人のための教科書
おくのほそ道を歩く

「江戸より百里」(一里塚)
 松島高校正門向かい。「雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の行きかう道」
雉(きじ)兎(うさぎ)蒭蕘(猟師・木こり)がゆきかうような山奥の誰も通らないような道というが、この道は、古くから発達した道であった。芭蕉は、石巻に行くまでおよそ次のような道を歩いている。

「千葉商店(ガソリンスタンド・馬頭観音脇の道路)」→
「一里塚」(松島高校正門前)(江戸より百里)→
「一の渡し」→
「左坂(あてらざか)」→(従来は)「十文字経由としていたのは間違いで、あった」→
『七むじり坂」(明治時代国道四十五号線がつくられたとき民間に払い下げられた)→
「上下堤」一里塚(済興寺下)(江戸より百一里)→
「鳴瀬川の渡し」→
「追分けの碑」(小野)→
矢本新田→石巻

*国道四十五号線や三陸有料道路ができて「石巻までの道」は、広くなり迷うような所は全くなくなった。芭蕉の歩いた古道は、地元の人以外通る人はいなくなった。もともと幅1間(六尺・約2メートル)から1間半(九尺・約3メートル)しかない道である。30年くらい前までは、昔のままの道が残っており、生活道路で植物も道ばたに豊かに咲いていた。今は、コンクリートで固められ、道路が拡幅されて、植物が削り取られ昔の面影はなくなった。一の渡しから左(あてら)坂にかけては昔のままだが、殆ど人は通らない。古道は皆「尾根と尾根を結ぶ」もので山あり谷あり、平らなところにまっすぐな道を造るのは、都市部であり、自動車が発達するまでは地方には平らでまっすぐな道路など殆どなかった。雨が降れば低いところは川になる。どんなときでも流されたりしない自然の道は尾根である。

 *古川の「緒絶えの橋」(歌枕)を見たいという芭蕉を石巻からは「金華山」が見えるといって石巻行きを強力に薦(すす)めたのは曽良だったという。石巻は港町として当時大変な勢いで発展していた。諸国の動勢をそれとなく見ることが必要であったとすれば、見る価値のあるところであった。石巻にも歌枕は沢山ある。

 上下堤一里塚からかわ下り村(小野橋付近)に入って、対岸の小野本郷へ船でわたる。曽良はどのようにしてわたったかは書いていない。幕末の頃は、「綱渡し」といって「両岸から綱を張ってその綱を引いて渡したという」芭蕉以前の時代小野から東側一帯は湿地帯で人が歩くこともできなかった。だから石巻への道は小野からさらに南下して浜市(はまいち)に出、そこから海沿いに道がつけられていた。現在の矢本の自衛隊(松島基地)の滑走路あたりがそれである。寛文二年(1662)から五年(1665)にかけて大々的に排水工事が行われ、新田が開発された。こうして矢本のまちがつくられると鹿妻を通り内陸を通新道がつけられた。ばしょうが「おくのほそ道」の旅に出たのは、元禄六年(1693)であるからできてから約三〇年経っている。小野宿は、本町(もとまち)と田町の二つの町で構成されていた。小野「田町」の追分けの旧道をを東に進むと「欠下三輪(かけしたみわ)神社」をすぎ、下法昌寺前、現在の別当住宅の地を過ぎ、熊野神社前までは、国道四五号線ができて旧道の面影はなくなった。農道としてわずかに残っている。

*古川方面に行くとすれば機会は数度有る。第1回目は、「千葉商店(ガソリンスタンド)」から吉岡方面にぬける道である。第2回目は、十文字から左に行けば、「松山道」である。

 現在は、人が通らなくなっているが、かつてはメインの通りであった。涌谷・松山方面の米や物資や人は、この道を利用した。特に米は、松島から寒風沢(さぶさわ)島に運ばれ、江戸や大坂に運ばれた。
 江戸時代、寒風沢島は、重要な港として栄えていた。松島の高城は、米の集積地であった。磯崎には「お蔵」が有って、仙台藩の武士が管理していた。高城から磯崎までは堀があり舟で米を運んだ。
 ホテル壮観・一の坊、ホテル松洲や松島町公民館、松島病院のあたりは、塩田であった。したがって、この近くには、元釜家とか、蟹松などの地名が残っている。なお、「松山道」は、「小川(こがわ)の渡し」を渡って、品井沼を舟で渡り、松山へ行く。

 小川(かがわ)の渡しは、吉田川と東北本線の交差するあたりにあったという。吉田川は人工の川である。もともとは、北泉が岳や七つ森の水は品井沼に注ぎ、出口のない仙台藩随一の沼を形成していた。松島にある高城川も人工の川である。
 元禄時代に品井沼干拓をするために竪穴を掘り、竪穴と竪穴の間にトンネルを掘って品井沼の水を松島湾まで流した。その時、人工の川が掘られた。それが高城川の前身である。
 現在の干拓は、明治排水を利用したもので、鹿島台方面に集まった水を鶴田川に集めその水をサイフォン構造にして吉田川の川底を流して松島湾に注がせたものである。

 この時、吉田川が独立河川となり下流で鳴瀬川と合流するように作られた。これで品井沼は干拓が進んだが、品井沼はその後も何度も昔の大沼に戻ったことがある。



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