松島塾
松島を愛する人のための教科書
おくのほそ道を歩く

五月九日(陽暦6月25日)
「早朝、塩竈の明神に詣づ。」
曽良随行日記
「快晴。辰の剋。塩竈明神ヲ拝。帰而出船。千賀ノ浦・籬嶋・都嶋等所々見テ、午ノ剋、松嶋ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物。開山、法身和尚・真壁平四郎。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被宿(やどさるる)岩屈有。無相禅屈ト額有。ソレヨリ雄嶋所々ヲ見ル。所ニハ御島ト書。富山モ見ユル。御嶋、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有、道心者住ス。帰而後、八幡社・五大堂ヲ見。慈覚ノ作。松嶋ニ宿ス。九之助ト云。加衛門状添。」
解説
五月九日辰の剋は、午前6時15分頃である。芭蕉は塩竈神社をことのほか褒めている。

「塩釜の明神」(塩釜神社、奥州一宮)「宮城県塩竃市一森山1-1」

塩釜神社
解説
 別宮 鹽土老翁(しおつちおじ)神
 左宮 武甕槌(たけみかづち)神(武神)
 右宮 経津主(ふつぬし)神(武神)
を祀り、安山守護、海上安全、家内安全、産業発展の神として広く信仰されている。

 昔、「武」の神である武甕槌(たけみかづち)[鹿島神宮祭神]と経津主(ふつぬし)[香取神宮祭神]の二神が鹽土老翁(しおつちおじ)神の案内で常陸の国(茨城県)から松島湾に出向き、蝦夷の平定と開発を行った。二神を案内した鹽土老翁(しおつちおじ)神は、当地に残り人々に製塩の方法を伝授した。土地の人々はこれらの神の恩に感謝して塩釜神社を建て、三神を祀った。このことから「しおがま」とこの地を呼ぶようになった。


しおがま・・・「塩釜」は駅、高等学校、港湾などはこの字を用いる。
「塩竈」を用いるのは塩竈市、塩竈市立の小学校、中学校。「鹽竈」と書くのは神社である。

慶長12年(1607)伊達政宗が修営した

*隣に志波彦神社がある。仙台市宮城野区岩切の七北田川畔にあったが、明治七年(1874)に塩釜神社別宮に遷祀、昭和13年(1938)に塩釜神社の境内の現在地に遷宮された。農耕守護の神として信仰を集めている。鳥居の前に「芭蕉翁おくのほそ道碑」がある。

文治灯籠
日すでに午に近し。船を借りて松島に渡る。その間二里余り、雄島の磯に着く
解説
 神前の宝燈の鉄の扉の面に「文治三年和泉三郎寄進」とある。この銘をみて芭蕉は感激する。「五〇〇年来のおもかげ、今目の前に浮かびて、そぞろに珍らし。かれは勇義忠孝の士なり」和泉三郎を「勇義忠孝の士なり」という。和泉三郎忠衡(ただひら)は藤原秀衡の三男である。父秀衡の遺命を守って義経に忠節を尽くし、兄泰衡の追討をうけて勇戦自害した。芭蕉の義経びいきは相当なもので、義を守って死んだ人々への思い入れは特に深い。
 文治灯籠が建立された文治三年は1187年である。これを、寛文年間(1661〜1673)に補修している。

「千賀の浦」
 多賀城国府から一番「近い浦」ということで「近の浦」とよんだ。そこから「千賀の浦」とよぶようになったという。千賀の浦は塩釜の浦であり、奈良・平安の都人が最も美しい海として愛でた。都人が松島と呼んだのは塩釜の海であったともいう。

*塩竈神社を参詣した後、昼近くに船に乗り、松島に向かった。

「籬(まがき)島」塩釜市新浜町一丁目地内

歌枕の一つ
 (芭蕉)「五月雨の空聊(いささか)はれて夕月夜幽(かす)かに、籬(まがき)が嶋もほど近し」と書いている。昔は、美しい海にぽっかりと浮かぶ幻想的な嶋であったが、今は湾内を埋め立て陸地が近い上にコンクリートで固めた港になっているため昔の美しさはなくなっている。



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