松島塾
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おくのほそ道を歩く

多賀城碑
解説
碑(いしぶみ)の内容は四維国界(しゆいくにさかい)の里数が記されている。

「多賀城   去  京  一千五百里
        去 蝦夷 国界一百二十里
        去 常陸 国界四百十二里
        去 下野 国界二百七十四里
        去 靺鞨(まっかつ)国界三千里」

*古代の里数で一里が6丁の計算にすると京まで千五百里になる。一里を36丁とすると京まで二百五十里になる。江戸後期の計算では多賀城・京都間は二百三十里である。

 神亀元年(724)按察使(あぜち)鎮守府将軍大野朝臣東人のいくところなり。天平宝字六年(762)参議東海山節度使同じく将軍恵美朝臣朝?(かり)の修造なり(十二月朔日)

 天平宝字六年(762)恵美押勝(えみのおしかつ、藤原仲麻呂)は正一位を授けられ権力の頂上に登り詰めた。二年後恵美一族は失脚し誅殺される(「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」)

 天平宝字六年(762)12月1日(朔日)は朝?(かり)が参議になった晴れの日でもあった。節度使であり鎮守府将軍であり参議の顕職を兼ねた若き貴公子朝?(かり)の誇りと遠く都を離れた不安とがよみとれるという。恵美押勝(藤原仲麻呂)は藤原南家の出身である。

 764年孝謙天皇が即位する。孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后との間に生まれた。孝謙天皇の治政は光明皇后を後ろ盾としておりその甥の藤原仲麻呂が台頭することになる。

 仲麻呂は757年の橘奈良麻呂の変(諸兄(もろえ)の子奈良麻呂を排除しようとした)をおさえて権力を確立した。孝謙天皇は淳仁天皇に位を譲ると淳仁天皇は藤原の仲麻呂に対し恵美押勝の名を与えた。孝謙天皇は初め藤原仲麻呂を重んじたが仲麻呂が推した淳仁天皇が即位すると仲麻呂は孝謙天皇を避けるようになった。
 こうした状況の中で孝謙上皇に用いられたのが道鏡である。道鏡は法相宗の僧であったが孝謙上皇の病気を治したことから信任を得た。760年(天平宝字4年)光明皇后が60年の生涯を終えたことが平安京の朝廷を淳仁帝=仲麻呂派と孝謙天皇=反仲麻呂派に分裂させる一つのきっかけとなった。

 762年(天平宝字6年)藤原仲麻呂は念願の正一位になったがその前年孝謙上皇は近江の保良宮(ほらのみや)で病の床に伏したとき看病僧として呼んだ僧道鏡に異常なほどの信頼を寄せるようになった。そしてこのコンビは太政官(だいじょうかん)の頂上をしめる淳仁天皇・仲麻呂派に対抗するために律令にない特別の役所(勅旨省といったらしい)を置きそこから詔勅を発して太政官の権力をおびやかしはじめた。道鏡が進出するのを恐れた仲麻呂は764年道鏡を倒そうと兵をあげた。これを藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱という。

 孝謙上皇らは早くから準備を整え作戦を受け持った吉備真備(きびのまきび)は先手をとって攻撃を加えた。押勝は近江にのがれたが捕らえられ斬首された。孝謙上皇は、淳仁天皇から位を奪って淡路島に追い、再び即位し称徳天皇となった。
 その保護のもとに道鏡は765年(天平神護元年)太政大臣禅師の位についた。さらに翌年766年には法王となった。そして反仲麻呂派の藤原永手(ながて)と吉備真備(きびのまきび)が左右大臣になった。

 769年道鏡は宇佐八幡宮の神託をうけたとして天皇になろうとした。770年(宝亀元年)の秋、女帝称徳天皇(孝謙天皇と同一人)は死んだ。そのため、前年、九州の宇佐八幡大神のおつげがあったとして天皇になる寸前までいった。しかし、称徳天皇の死によってその支えを失った。

 これに対し藤原永手と藤原百川を中心とした藤原氏は一族の政治力をよみがえらせる機会をつかんだ。藤原氏は天智天皇の孫にあたる62才の皇子をおして天皇の位につけた(光仁天皇)。

道鏡は下野の国薬師寺にうつされ、そこで死んだ。


*その後、奈良末期から平安時代の初めにかけて東北は「アテルイ」ヤ「モレ(母礼)のような勇敢な族長が天皇政権の横暴に抵抗した。彼らは日高見(北上)の国または荒巾脛(あらはばき)の国の族長であったという。天皇政権は多賀城を侵略最前線基地として占領政策を続け、前線を北へ北へとすすめ占領地域を広げた。天皇政権は明らかに東北から見れば侵略者であった。天皇政権は、「まつろわぬもの」(まつりごとを一緒にしない者)を征伐の対象とした。アテルイは延暦二十年(801)に田村麻呂の軍門に下る。田村麻呂は恭順の意を示せば天皇とてもアテルイの命までは取らぬだろうということで都に連れて行ったが、アテルイを恐れる貴族たちは田村麻呂の言い分を聞かずにアテルイを殺した。

*まつろわぬものを成敗するのは今の政局でもまったく変わらない。2005年の自民党政権も反対派を除名し排除している権力者が権力を守るということは反対派をたたきつぶすことからはじまっている。このままだと1930年代の日本やドイツと同じになってしまう恐れがある。反対派が次々につぶされていきつく先は・・・・・。

(歌枕)「山崩れ川流れて道改まり、石は崩れても・・・」は李白、蜀道難「地崩レ山摧ケテ壮士死ス」(古文前集、七)を引いている。
「壷碑(つぼのいしぶみ)」を見て芭蕉は、「疑いなき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す、行脚の一徳、存命の喜び、羇旅(きりょ)の労を忘れ、涙も落つるばかりなり」と感動している。

*多賀城碑(壷碑と誤り伝えられている)の横に芭蕉の句碑が現在建てられてある。「あやめ草足に結ばん草鞋(わらじ)の緒」
近くには、「あやめ園」があり、六月には満開になる。

 芭蕉は文字の霊力を信ずる。靺鞨国(まっかつこく)とは、中国東北部とロシア沿海州にあったツングース系の国のことであり、奈良時代のことをよく知っていないと書けない。

 江戸時代につくられた贋作という説を立てた人もあるが、真贋を論ずる前に現物を一見すべきである。芭蕉は一見して「泪(なみだ)も落つるばかりなり」と感動した。

 多賀城碑を建てた青年朝?(あさかり)の生命は消え果ててもその心は「千歳の記念(かたみ)」として残った。芭蕉はそのことに感動する。芭蕉はここで、坂上田村麻呂や大野東人、藤原朝?(あさかり)と心の会話をする。

「あなた方の見たこの空の下で、今私もこの碑(いしぶみ)をみて往古の昔を思い浮かべている」


 歌枕や歴史をよく知っていないと芭蕉の感動は味わえない。しかし、現代では別の見方も出てきた。東北人の立場からの解釈である。もともと多賀城は天皇政権の東北侵略最前線基地であった。

 都人にとって、命がけの辺境警備隊駐屯地であった。最前線基地はその後、北へ北へと移動していった。天皇政権に抵抗した東北軍の司令官がアテルイである(坂上田村麻呂と戦った)。

 東北には「あらはばき」の国、あるいは「日高見(北上)の国」があったという。多賀城には「あらはばき神社」が奏者の宮の近くにある。東北は江戸時代でさえも「みちのく」「未知の国」「道の奥」であった。この考え方は、あくまでも天皇政権からみた位置づけであった。


 「東北」という考え方そのものが「中央」という考えからの発想である。これは、中国の中華思想の影響で、世界の中心は中華帝国であり、その都から遠くなるほど野蛮人の住んでいる所と考える。だから、これを支配し、遅れているものに中央政権の恵みを与えてやるという思想である。

 大和政権は、この中華思想を日本にとりいれ、奈良京都を中心として、周辺を支配し、天皇政権の力を誇示した。抵抗するものは悪者であり、征伐の対象とされた。

 東北は蝦夷(えぞ)、九州は熊襲(くまそ)とよばれ、征伐の対象とされた。

 東北人は戦争はしたくなかった。多賀城碑は天皇政権がこの地を支配したぞという喜びの記念碑である。東北人にとっては、占領支配された屈辱のシンボルなのである。

 多賀城碑は、ただの古い石でもある。

 しかし、芭蕉のように「千歳の記念(かたみ)」として感動してみることのできる人は少ない。

 また東北人の立場からみると占領支配のシンボルだなどとしてこれを破壊したりしてはならない。文化遺産は文化遺産として大事に残す余裕がほしい。



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