松島塾
松島を愛する人のための教科書
おくのほそ道を歩く

五月六日(陽暦6月22日)
(曽良随行日記)
六日
 天気能(よし)。亀が岡八幡へ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶屋へ入、止テ帰ル。
解説
「亀岡八幡」に詣
「青葉城」(にわか雨にあい茶屋に入り城はあきらめて帰った)

五月七日(陽暦6月23日)
(曽良随行日記)
七日
 快晴。加右衛門(北野加之)同道ニ而権現宮を拝、玉田・横野を見、つつじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。薬師堂、古(いにし)へ国分寺之跡也。帰リ曇。夜ニ入、加右衛門・甚兵へ入来(じゅらい)。冊尺(短冊)並横物一幅づつ翁書給(かきたまふ)。ほし飯一袋・わらぢ二足、加右衛門持参。翌朝、のり一包持参。夜ニ降。
解説
「東照宮」
 東照宮(権現宮)参拝(加右衛門に案内されて行ったが芭蕉は興味を示さなかった)
 国分町の東北、宮町の北の高台に徳川家康を祀っている。仙台藩二代藩主忠宗が三代将軍家光の許しを得て一六四五年に立てた。もとは天神社であったが、天神社は榴ヶ岡にうつした。葛西大崎の乱(一五九一年)のとき家康が休憩したゆかりの地であったという。
 天皇家は「天照(あまてらす)」を祖先心とするが、徳川家は「東照(あずまてらす)」を祖先神としたのである。

歌枕「玉田・横野・榴ヶ岡」・・・(あせび咲くところなり)


「天神の社」
<天神の社>榴ヶ岡天満宮

 伊達家四代綱村が榴ヶ岡の地に建立したもの。天神の社は菅原道真がまつられている。道真は太宰府(北九州)に左遷され「京を思い藤原一門をうらんで死んでいった。道真の死後「落雷」があり道真を左遷した人々が死んだ。さらに流行病(はやりやまい)がありこれでも死んでいる。人々はこれこそ道真公のたたりであると恐れ「天神」として奉り「怒りの魂」をなだめた。菅原道真(管公)は学者であったため学問の神様入試の合格の神様として天満宮には今でも多くの人々が参拝にくる。
*源俊頼「取りつなげ玉田横野の放れ駒つつじの岡にあせび咲くなり」(散木奇歌集)あせびの花は3月

「木下・薬師堂」
 歌枕「木の下」「薬師堂」(国分寺跡)・・・古来萩の名所、国分寺は天平13年(741年)に建てられた。ここに16世紀になってから伊達政宗が「薬師堂」を再建した。明治以後、伊達家の庇護がなくなり廃絶した。

「宮城野の萩や牡鹿の妻ならむ花咲きしより声の色なる」(千載集秋上)

当時の宮城野は日影も漏らぬうっそうとして松林であった。現在の仙台市野草園にそのおもかげが残るという。
「みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」(古今集 陸奥の歌)

*薬師寺からの帰りは曇っていた。夜になって加右衛門と泉屋甚平衛が、芭蕉の止まっている宿にあいさつに来た。このとき加右衛門は芭蕉の足にあった草履(わらじ)をつくり、それも蝮(まむし)や毒虫が嫌う紺色(藍染め)の麻の緒をつけて贈った。加右衛門の此の細かい心遣いを「ここに至りて其実を顕(あらわ)す。」と感謝し感動している。



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