松島塾
松島を愛する人のための教科書
おくのほそ道を歩く

「おくのほそ道」(仙台〜松島〜石巻)
  「おくのほそ道」を芭蕉が歩いたように辿(たど)ってみたい。こう考える芭蕉ファンは多い。しかし、芭蕉の時代にあった道が、今も残っているとはかぎらない。
 まったく新しい道が次々出てきている。なくなった道もある。解説書には芭蕉の道として紹介されている所がほんとうに歩いたかどうかはわからない。
地元の研究者という人も実は地元の人ではなく後から来たひとだったり、いわゆる文化人と称する町の顔役だったりすると史実ではなく観光案内だったりするので気をつけなければならない。
 いわゆる「学者」は自分の足で確かめることもなく、推定で書いている人もある。松島の「石巻への道」など、歩いても見ないで芭蕉の創作だとして軽くとばしてきた。「雉兎蒭蕘(ちとすうぜう・ちとすうじょう)の行きかう道」などあろうはずもないとしてきた。

ところがあったのである。

 今まで誰も疑ったこともない所に「七むじり坂」という「今は廃道となった道があった」。芭蕉が歩いた道は、今では自分の足で歩いたとしても実際はわからない所の方が多いのが現実である。

 古地図と比較し、地名を確認しながら歩いてもなお、不明な所が多い。分岐点がわからない、川がなくなっている。山もなくなっている。広い道路、新幹線、有料道路などがずたずたに古道を切り裂いている。切り通しになったり、新道開発で古道は途中で崖になっていたり、建物があったりして歩けないことがしばしばある。また、竹や樹木が生い茂り人が歩かなくなっている所もある。

 ここでは、「おくのほそ道」の俳諧に関することや「文章論」については特別触れるつもりはない。筆者は、「芭蕉の歩いた道」とその「コース」に興味がある。勿論史跡や歴史についても深く関心を抱いている。この書は、「おくのほそ道」を理解するための一部資料として参考になれば幸いである。

 最近、松島町で一里塚の研究をされている京野英一氏と会い、いくつかの質問を受けた。

1.芭蕉は「左(あてら)坂から十文字に抜けた上下堤にいったというのは本当ですか。」誰がそういったのですか。
2.「松島高校の裏手の水溜上1−1(相沢詮さん宅前)が江戸から百里の一里塚だということはわかっていますが、次の百一里目の一里塚はどこにあったのですか。」というのである。

 京野氏の研究によれば街道にはそれぞれ一里塚があり、旅人はそれを頼りに旅をした。特に初めて来た旅人はまず一里塚を通る。大名行列などはコースが必ず決まっていた。お江戸日本橋から松島海岸までは九十九里である。その一里塚は利府赤沼から松島海岸にぬける長老坂にある。アバロンというレストランのあたりに一里塚があった。このあたりの道路は拡幅されただけでなく切り通しをつくり山を崩して新道をつくっているので昔の面影はない。
 
「江戸から百里はどこか」ということから京野氏の調査は始まった。彼は町おこしのための研究からいつの間にか地理研究会の重要なメンバーになっていく。古地図を探し、明治時代の地図を探し、現地を踏査する。さらに実際に歩いて、一里の地点を探ってみた。長老坂の一里坂からちょうど一里の地点は、高城水溜上―1―1の地点である事がわかった。すぐ近くに松島高等学校がある。この地点は昔「法華越え」といった。南無妙法蓮華教と書いた大きな石碑が残っている。その隣に「江戸から百里」の説明板を立てた。一里塚地点からは少しずれるが、観光の目玉の一つにするには、目立つ所で、安全な場所でなければならない。許可もいる。結局、公有地で説明板の一つや二つ立てた所でじゃまにもならないし、教育の一環にもなるとなれば、高校の敷地が適している。一里塚から離れているなどと硬いことはいわないことになったのだろう。

ところで、京野氏の質問の江戸から百一里、つまり、高城水溜上1−1の一里塚の次の一里塚は、どこなのか。

京野英一氏は片っ端から調べてみた。仙台郷土研究会の人々もこの研究に関わっている。
古地図を探した所、仙台藩の国絵図『奥州仙台領国絵図』が仙台市立博物館にあった。正保年間(1645年頃)作成されたものである。これをみると左坂(あてらざか)から北側に左折して国道45号線をこえて十文字にいき、左折すれば『松山道』であるが、右折して上下堤にでるコースはどこにも書いてないのである。今まで、石巻街道だとばかり思っていた道は『芭蕉の当時』はなかったということがわかった。さらに、この地図には、郡境と『上下堤一里塚』が記されていた。郡境の石柱は、国道四十五号線にあるのですぐわかる。黒門からそう遠くない所にある。『上仙道中記』には、左坂は『右涌谷道、左に二軒茶屋』とあり、『十文字から上下堤の道』と『松山街道』を通っていないことがわかる。十文字から上下堤に抜ける道が完成するのは文献等で見るとどんなに早くても天保十年(1839年)が上限だと思われる。
さらに、登米町懐古館蔵の元禄領内絵図の写しには、村境まで詳しくえがかれている。佐久間洞巌が享保13年(1728)に書いた『陸奥国塩釜松島絵図』{宮城県図書館蔵}にも石巻街道の左坂一帯の様子が描かれている。
 その前に、高城から一里、江戸から百一里の一里塚はどこか。地図や地元の人の記憶を辿って探してみた。すると富山の下の済興寺という寺の入口とぶつかる所の街道筋に一里塚があったことがわかった。この街道は、現在も生活道路として使われており、国道四十五号線と並行している。
それでは、左坂から上下堤にはどのような経路をたどっていったのか。実際に歩いてみるともし道があったとしても十文字を通って上下堤に行き一里塚に向かうとどうしても四百メートルくらい距離がたりない。
 
 一里塚の距離がいい加減なわけはない。左坂のあたりで京野氏たちが「はたと困っていた」所、左坂の池田さんが、「昔は、このあたりは『七むじり坂』という坂があって俺が嫁に来た頃はまだ歩いていた。今は竹が生えて、まむしのすみかになってるから誰も歩かなくなった。歩かなくなってから三十年くらいにはなるかな』と教えてくれた。

 調べてみると松島町の古い地図には道路として載っている。名前は書いていないがたしかに道がある。この道は明治十八年に国道ができたときに廃道となり民間に払い下げられ私道となった。それ以来誰も通らない道になった。何十年も経つうちに『七むじり坂』のことは地元の人以外は誰もわからなくなった。高城から左坂を通り『七むじり坂』を通って上下堤の一里塚に行くと距離は限りなく一里に近くなる。冬になるとこの道を通ることができる。このあたりなら、芭蕉が「雉兎蒭蕘(ちとすうぜう・ちとすうじょう)の行きかう道」といったのもうなずける。

 誇張でも何でもなく事実なのである。京野氏は町おこしの観点から古道を復活させて往時をしのぶのも良いと考えている。松島と東松島を海岸と陸路のサイクリングロードとしてつなぐのもよい。また、自然のままそっとしておくのも良い。

「奥の細道を歩く」
 「おくのほそ道」を「曽良の日記」を検証しながらたどってみよう。この読み方は、芭蕉の本意からはずれる。

 しかし、「曽良日記」と「おくのほそ道」を対比してみると芭蕉がいかに練り上げてこの文章を書き上げたかがわかる。推敲に推敲を重ね、一切の無駄をそぎ落として「おくのほそ道」を書き上げた。
 しかもこの文は、芭蕉の生前には公開されていない。ふるさとに住む実の兄に献上するために書かれた。

 「おくのほそ道」は芭蕉の死後、去来が懇請して芭蕉の兄の許しを得て、芭蕉の死後8年を経て、元禄15年(1702年)に京都の井筒屋から版行されている。

 この書で「資料」としているのは「おくのほそ道」と「曽良日記」のぶぶんである。ところどころに「道」と記した所は、芭蕉が歩いたと思われる所を筆者が、調べたり歩いたりして、確かめた所であるが、部分によっては、まだ確認していない所もある。京野氏は、一里塚を宮城県はもちろんのこと全国的に調べてみたいといっている。
 わからなくなっていた一里塚が、はっきりするとこれこそほんとうの「駅伝」ができる。

 芭蕉が歩いた道をそのまま辿ることと「おくのほそ道」の文学的価値とは何の関わりもないが、俳句や俳諧ははよくわからなくても芭蕉の歩いた道を歩いてみたいという人はかなり多い。
 「風流」とまでは行かなくても「歌枕の旅」や「史跡巡り」に興味関心の深い人は沢山いると思う。それでは、芭蕉と曽良の後を追って「おくのほそ道」をあるいてみよう。



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おくのほそ道を歩く
おくのほそ道を歩く]

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おくのほそ道
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