松島塾
松島を愛する人のための教科書
おくのほそ道を歩く

はじめに
 奥の細道という地名がある。岩切の東光寺の前の通りを室町時代の紀行文で「奥の細道」として記しているものがあるという。

 その後ほとんど使用されることもなかったが、江戸時代になって大淀三千風が「松島眺望集」で再び「奥の細道」として記した。

 「塩釜に近し、此辺(このあたり)、浮島・野中の清水・沖の石・奥の細道・轟の橋などいふ処あり」と歌枕・名所のひとつとして紹介している。江戸時代仙台藩では史跡歌枕の調査に力を入れていたので早速これが取り入れられた。

 古代(奈良・平安の時代まで)都から多賀城政庁を結ぶ道を「東山道」といった。平安時代末期から鎌倉時代になると武士が政治の実権を握り、この時代を中世と呼ぶ。鎌倉時代になると政治の中心は、京から鎌倉に移る。

 そこで、鎌倉から奥州の実力者平泉に藤原氏との間を結ぶ道が官道として発達した。これを「奧の大道」という。南北朝時代になると「奧の大道」に対し、平安貴族が愛した地賀の浦(塩竈)・松島への道を「おくのほそ道」と呼ぶようになった。

 芭蕉の旅は世間の常識でいえば、実生活では何のたしにもならない「俳諧一筋」に生きる風狂のなせる業である。芭蕉にとって旅そのものが修行の場であった。自然の懐に抱かれて光と風をしっかりと受けて自然の力の偉大さに素直に感動する。そして、西行や増賀のように一切の執着を捨てて修行した人々の後を追い、その悟りの深さに思いをいたし、風雅を愛した人々の残した名歌をその場で思いおこす。すると古人の感動が呼び覚まされる。

 歌枕や史跡に接して芭蕉は心から感動する。

 旅という形で空間を移動すると同時に現地におもむいて古人と対話しながらタイムスリップする。芭蕉のたびは、時間と空間を自在に旅するものである。言い換えれば、現在のわれわれが、芭蕉の句を口ずさみ、その地に行って芭蕉を思うとき、芭蕉はその場にタイムスリップしてくるということである。芭蕉は「言霊(ことだま)」を信ずる。言葉には霊力がある。確かに精魂込めて作られた句を口ずさむときそこには独特の世界が生まれる。作者が伝えようとした何ごとかが伝わってくる。

 芭蕉は「たびねして我句をしれや秋の風」(野ざらし紀行)と詠む。

 芭蕉は自分の句を実際に旅を通して感じ取ってほしい。自分の足で歩いて確かめてほしいという。歌枕や名所や旧跡を巡ることは、ただのもの見遊山ではない。

 芭蕉は実によく、歴史や漢籍を知っている。それも正確に時代背景をつかむ。そして1000年前の人の感動を自分のものとして受け止める。「古人の心を閲(けみ)す」と昔の人の心の中をおもんばかって感動し感謝する。

  「おくのほそ道」も陸奥(みちのく)という意味もあるが、俳諧の細道を探求するという意味も含まれているともいう。

 そして、芭蕉は自らを「終(つい)に無能無才にしてこの一筋につながる」(幻住庵記)という。実際の芭蕉は、若い頃五千石の武将の若君に使えた才人であり、一時は幕府の役人にもなった人である。

 また、家は伊賀上野の中忍の兄を持つ複雑なしがらみを持つ人でもあるという。しばらく、芭蕉とともに仙台・松島・石巻を時空を超えて散策してみたいとおもう。



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