松島塾
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ベトナム見聞録

ベトナムの歴史・建国神話
「ベトナムの歴史、政治と人種と民族」
*ベトナム人の起源・・・その起源は、まだはっきりわかっていない。
五十万年まえから三十万年前  ハノイ南西マ河渓谷で旧石器遺跡発見
9000年前  原始農耕の跡 紀元前10世紀頃〜紀元前2世紀頃
○北ベトナム中心にドン・ソン文化(青銅器文化)
○稲作を営み、紀元前3世紀頃に国家形成の動きが見られた。

「建国神話」 (文郎国・ヴァンラン)
 炎帝神農氏の三代の子孫である帝王には二人の子どもがいた。帝王は賢い弟に位を譲ろうとしたが、弟はこれを固辞した。仕方なく帝王は、兄を北方の王に、弟を南方の王にした。弟は洞庭君の娘と結婚し、ラクロンクワン(貉龍君)が生まれた。ラクロンクワンは成長して、山人の仙女であるアウコ(嫗姫)と結ばれ、100人の男の子が産まれた。子どもたちが大きくなるとラクロワンは50人の息子を率いて海岸の平野へ、アウコは残りの50人の息子を率いて山地へ行き、別れて暮らすことになった。ラクロクワンに随った50人の息子の中から、フンヴォン(雄王)という王が出てヴァンラン(文郎)国を建国した。 これがベトナム人による最初の国家である。

前219年…秦の始皇帝の侵攻により国家形成は頓挫した。
***南越国建国・・・秦末・豪族の趙佗が建国

前111年…前漢の武帝に「南越」滅ぼされる。
***前漢(武帝)・・・九郡を置き、交州刺史に統治させた。べトナム北部に交趾(こうし)、九真(きゅうしん)、日南(にちなん)の三郡を置いた。

日南郡の南境は、北緯十六度線の「雲の峠」といわれる海雲関あたりと推定されている。漢は多くの中国人の罪人をこの地方に送ったのでその言語や習慣が次第に彼らの間に広がりしみこんでいった。さらに役人を送って積極的に教化政策を進めたので、焼き畑農業にシナ風の農耕が始まり、婚姻の習俗などもシナ式に改められたりした。しかし、外国の支配はベトナム人の意にそわず、まして圧政の続いた時には、しばしば反乱が続出した。その中でも現在のベトナム国民から民族主義運動の象徴としてあげられるのが徴側(チュンチャク)徴弐(チュンニ)姉妹の反乱がある。徴側の夫が不法に中国官憲にとらえられると憤慨して妹と共に兵を起こした(紀元40年)。彼女は最後はとらえられ斬殺された。(紀元43年に鎮圧された。)彼女は、ハット川に身を投じて死んだという説もある。陰暦2月6日のことであった。

544年〜602年 「ソ・ナム・デー」の反乱
***1000年間にわたって、中国がベトナム北部を支配していた。なお、越南人、安南人、ドン・ソン人は同一なのかどうか。これが、現在のベトナム人のルーツなのか、まだ解明されていない。
***ベトナム戦争の時主たる戦力となった勇敢な「モイ族」のことをカンボジアでは、「プノン族」といい、ラオスでは「カー族」とよぶ。
***日本の奈良時代、遣唐留学生阿倍仲麻呂(698〜770)が日本への帰国の遣唐船が暴風雨に遭い安南(ベトナム)に漂着した事故は、よく知られている。そこで仲麻呂は再び唐に戻ったところ、鎮南都護に任ぜられて安南の宣撫にあたったりして、とうとう日本には帰れず、長安で死んだ。古今和歌集「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも」は、阿倍仲麻呂の望郷の歌として知られている。

938年・・・「北部ベトナム」に土着の国家誕生。
***ゴクエン(呉権)中国(南漢軍)を破り独立した。中国人を北人、自分たちを南人と呼んだ。また自分たちを文明人であるとして都(京)人であるという意識を持ち、自らを京(キン)人といいキン族といった。これがベトナム人の根底に意識としてある。

968年「ベトナム独立」・・・丁部領(ディン・ボ・リン)が皇帝を称し「大瞿越(ダイゴベト)」を建国。
***キン族は、10世紀に独立を果たし、周辺諸民族を滅ぼしつつ南へ向かって領土を拡大した。

980年「レ(黎)朝創建」レ・ホアン(黎桓)が宋軍を駆逐
1009年「李朝創建」リ・コ・ウアン(李公蘊)が創建、都を安南からハノイに遷した。

1225年〜1413年「陳朝」・・・李朝の豪族陳嗣慶が反乱を起こし、甥の陳ケイを即位させた。
***1257年、1285年、1287年の三度、モンゴル軍の襲撃を撃退した。

1400年 「ホー(胡)朝樹立」・・・「チャン朝」をホ・クイ・リが滅ぼして創建。

1407年 ・・・中国「明」の侵攻。20年間占領され明の直轄領となった。
***鄭和の遠征(明代、第1次1405〜1407)大船62隻将兵2万7800人が、上海を出発しベトナムの占城(チャンパ)の新州港(ベトナムのキニョン)に立ち寄り、ボルネオ、バレンバンをへてマラッカ海峡を通過し、セイロンに足をとどめ、カリカットに達した。この地に鎮国の碑をたてて1407年9月に南京に帰着した。第4次遠征の時には、ペルシャ湾オルムスに達し、第6次には部下をアフリカ東海岸およびアラビアのメッカにまで派遣した。鄭和は、華僑の信奉の対象になっている。

1428年・・・「レ・ロイ(黎利)」が明軍駆逐、再独立。ハノイを都とした。
1527年・・・軍閥マク(漠)氏による政変。レ(黎)朝倒れる。マク(漠)氏王位につく。グエン氏とチン(鄭)氏の争いが続く。

1592年・・・マク(漠)氏がチン(鄭)氏に滅ぼされた。
*フエにグエン氏の政権、ハノイにチン(鄭)氏の政権が出来た。

17世紀〜18世紀
グエン(阮)朝(フエ中心)
チン(鄭)朝 (ハノイ中心)

*タイソン(西山)の乱(農民反乱)により両氏滅亡
*反乱の指導者
グエン・ヴァン・フエ(阮文恵)政権樹立

*グエン・フク・アイン(阮福映)・・・シャム(バンコック)に亡命  息子をルイ16世のもとに送り、フランスの力を借りる計画(息子はフランスで命を落とした)
*アインの要請、宣教師(ピニョー・ド・ベエーヌ)の働きかけ フランスは、グエン・フク・アイン(阮福映)と攻守同盟を結んだ。
(この条約は、後にインド総督の反対で破棄された。)
ベエーヌは、みずから義勇兵を組織して援助した。
*グエン・フク・アイン旧都フエ奪回

1802年 「越南(ベトナム)」建国
 「グエン(阮)朝」・・ハノイを陥落させ「ベトナムの南北統一実現」
1853年 ナポレオン三世がスペインと連合してフエに侵攻(陥落せず)
*スペイン人宣教師の処刑に対する抗議が口実

1859年 ナポレオン三世サイゴンを陥落させる
1862年 グエン朝フランスにメコンデルタ三省を割譲
1884年 清仏戦争(ベトナムの宗主国清を撃破)
1887年 フランスがベトナム・ラオス・カンボジアの一部を植民地化 (仏領インドシナ連邦形成)
1920〜30年代  仏領インドシナが栄えた時期
1920年代後半  ホーチミンら民族運動組織化
1930年 ホー・チ・ミン(グエン・アイ・コック)がベトナム共産党結成…独立運動展開
1939年 第2次世界大戦勃発
***「日本のベトナム戦争」
1940年9月 フランスがドイツ軍に降伏(ドイツと同盟を結んでいた日本が仏領インドシナに進駐)フランスのヴィーシー政権は、日本のインドシナ進駐を認めた代償に植民地支配の継続を許され、以降、日仏の二重支配が続いた。1944年〜45年 ベトナム北部で200万人の餓死者が出た。悪天候と洪水などの自然災害だけでなく、日本軍の食料収奪(決戦に向けての備蓄米)の結果大量のが死者が出た。
1945年3月 日本軍、ベトナムを軍事管理下に置く。(フランスのインドシナ支配権を剥奪)
1945年6月 ベトミンは、フランス軍の武器を入手。ベトナム解放軍を編成、北部に解放区を設けた。
1945年8月 日本ポツダム宣言受諾(敗戦) ホーチミン「ベトナム民主共和国」独立を宣言(フランスこれを認めず)
1945年8月15日 日本降伏。戦争中日本に協力していた保大(バオダイ)政権崩壊。
1945年9月2日 ホーチミンの率いるベトミンが中心となりハノイで「ベトナム民主共和国」臨時政府を樹立(フランスこれを認めず)。ホーチミン大統領に就任。
1945年9月 イギリス軍サイゴンに上陸。英仏連合軍は武力で革命行政機関を占領。北部に中国国府軍進駐。
1946年1月 ベトミンを主体とする民主共和国が発足。フランスの北進に対抗ホーチミン主席となる。
1946年3月 仏、インドシナへの復帰を目指し、しばしば停戦協定をやぶる。
1946年6月 仏、コーチシナに新仏的臨時政権を樹立。
1946年11月 仏、ハイフォンを武力占領。
1946年12月 仏軍、ベトミンと全国的衝突に発展、ベトミン軍ハノイを捨てトンキン北部高地に撤退。
1947年2月 仏軍、ユエを占領 1947年7月 南ベトナムに保大(バオダイ)新政府樹立。
1949年 国府軍を追って南下の中共軍、ベトナム国境に到着、ベトミン軍これに呼応。
1950年10月 仏軍は、高平・諒山放棄
1950年11月 仏軍、老開を放棄。
1950年12月 ヴェトミン軍、ゲリラ戦から正面攻撃に転じハノイ北方地区で激戦
1951年5月 トンキンデルタで激戦
1952年2月 ベトミン軍ハノイ西方占領
1953年10月 ラオス王国独立(ベトミンの応援)
1953年11月 ホーチミン主席「和平交渉の用意がある」と声明

***ベトナムの分断はどうしておこったか
1945年7月、連合軍は、ベトナムを支配していた日本軍を追い出したあとのことについて話し合った。ポツダム会議は、暫定的な措置として、イギリスと中華民国の軍隊をインドシナに派遣する。北緯16度線でベトナムを2分割し、日本軍を武装解除し、連合国捕虜を解放する。かつてインドシナを支配していた植民地帝国フランスにはドイツに侵攻され敗北し、昔日の面影はない。したがって二つの外国がフランスに代わって軍隊を駐留させるという変則的状況が発足した。インドシナの人々は、かつての植民地支配者のフランスの弱体化を見た。
第2に、ベトナムを分断担当した二つの外国勢力は自国の思惑により対応が全く二つに別れた。
イギリスは植民地主義者の仲間として連合国フランスに同情的であった。イギリス東南アジア司令部はフランスの復帰を期待し暫定的摂取統治を行った。中華民国はフランスに対し同情するどころか、かつて19世紀末に主権を侵害された経過がある。したがって、ホー・チ・ミンを主席とする「全ベトナム民主解放委員会」の共産主義勢力を承知の上で協力した。フランス復帰には消極的なのは当然であった。ホー・チ・ミン勢力は「8月革命」(終戦後の「全国民総蜂起」)によって勢力を拡大した。1945年9月2日ハノイで開かれた大集会で「共和国の独立宣言」を行った。
中華民国はベトナムの北半分について、かつては中国(清)の藩属国であったものをフランスが武力で強奪した(清仏戦争)事を記憶していた。
したがって、フランスの北部ベトナム統治権返還の要求に対し1946年2月20日に中仏協定(重慶で開いた)を結び、次の代償を要求し、これを通してベトナム北部から撤退した。
「中華民国に対するフランスの一切の治外法権と租界の放棄、ハイフォン、昆明鉄道輸送の中国商品への関税と通過税の免除,同鉄道の中国部分の所有権と経営権の譲渡、ハイフォン港の自由港化、在インドシナ華僑の地位向上など」

***第1次インドシナ戦争勃発
1954年 ディエン・ビエン・フーの戦い(ベトナム軍、フランス軍をうち破る)
*ベトナムの事実上の勝利
ボー・グエン・ザップ将軍の人民戦線軍は、フランス軍を打ち破った。軍事力における最大の功労者は、ボー・グエン・ザップ将軍であり、政治的・理念的指導者はホーチミンであった。二人ともフエの「クオック・ホック高校」の卒業生であった。ボー・グエン・ザップ将軍は、94歳で2002年現在ハノイで生活しているという。

***「フランスの敗北とアメリカの支配」
1954年7月 ジュネーブ国際会議(ジュネーブ協定)
○北緯17度線を軍事境界線として南北に分割された。
○2年後に全国選挙で統一の是非を問うことを協定で約束。
*南ベトナム(ベトナム共和国)統一選挙実施を拒否(ゴ・ジンジェム首相) (アメリカの軍事・経済援助を後ろ盾にファシズム的支配体制強化)
*農民や仏教徒、反ゴ・ジンジェムの姿勢打ち出す。

1960年 南ベトナム解放民族戦線誕生(ベトナム戦争始まる)

1961年 ジョン・F・ケネディが合衆国第35代大統領に選出されると、彼は共産勢力の封じ込めを外交政策の最重要課題とした。その結果、同年11月アメリカ政府は、南ベトナムに派遣していた軍事顧問団の大幅増強と米軍の作戦参加を決定。本格的な介入を開始した。
*アメリカのドミノ理論・・・南ベトナムは「自由世界の砦」、これが負ければ東南アジアから日本に至るまで、次々と共産主義に征服される(ドミノ倒し理論)と主張。アメリカは、ゴ・ジンジェム政権安定策として実行した「戦略村計画」は失敗した。それは、農民とベトコンを隔離するために作られたものであったがベトナム人の心を隔離することはできなかった。肝心のゴ・ジンジェム政権もアメリカ政府が容認した軍事クーデターによって1963年11月に倒壊した。

1963年 アブバクの戦い *ベトナム共和国が解放戦線に大敗を喫した。アメリカ大統領ケネディは、翌年のアメリカ大統領選挙に勝利するためにベトナムでクーデターを起こさせ、ゴ・ジン・ジェムを暗殺させた。
1963年11月ダラスでケネディ暗殺(ジェム暗殺後20日目)
1964年8月2日 ジョンソン大統領「トンキン湾でアメリカ駆逐艦が北ベトナム軍の攻撃を受けた」と発表(後に嘘が判明…)
1964年8月4日 報復爆撃開始(アメリカがベトナム戦争に全面的に介入)
ベトナムの海軍基地をアメリカは爆撃した。 (1984年7月15日、アメリカのワールド・リポート誌が「トンキン湾での北ベトナムからの攻撃はなかった。事件は幻であった。」と報道特集を行った。
1984年8月2日ベトナム側も「当日は台風が接近していたため、すべての艦艇は、基地港に避難し、湾内にはいなかった。」と表明した。)

1965年 北爆開始
1968年1月 解放戦線がサイゴンをはじめとする南部の諸都市にゲリラ攻撃(テト攻勢)
1968年10月 アメリカ「北爆」停止を決定。翌年、米軍撤退始まる。
1969年1月 ベトナム駐留米軍の規模が最大の54万9500人に達した。30カ国以上の国が何らかの支援を行い要員を送った。
1969年7月 膨大な赤字財政のため軍事費削減を迫られニクソン大統領は「ニクソンドクトリン」を発表(米軍の南ベトナムからの撤退開始)
1969年9月  ホーチミン死去
1973年1月  パリ和平協定調印(即時停戦、米軍撤退などを内容とする)
1975年4月  サイゴン陥落(南ベトナム解放)
*ベトナム戦争終結。

***「ベトナム統一後の経済」
1976年4月 南北ベトナム統一選挙実施
1976年6月 ベトナム社会主義共和国建国(南北統一達成)
*カンボジア・中国との紛争続く
*経済破綻・・・市場の70%を失い400〜700%のインフレ米不足に悩まされた。急速な社会主義化を行おうとして、農業の集団化、資本主的経営の統制を行った結果、農業生産低下、食料不足になった。
*難民流出〔何10万人という人々が、ボートピープルとなって大量に海外亡命した。)
***「行政幹部」が「北」からやってきた人々によって占められ、旧南ベトナム政府や軍の関係者の多くが追放、逮捕、拘留され、交流期限の過ぎた後も、多数が農村へ追放、移住させられている。
1978年12月2日 ベトナムに避難していた元ポルポト派のヘンサムリン等がベトナム国境に近いカンボジア領内で「カンボジア救国民族戦線」を結成。
1978年12月25日カンボジア救国民族戦線の要請に基づきベトナム軍10万人が、カンボジア領内に進撃、ポルポト軍壊滅状態となる。ベトナム軍プノンペンまで侵攻
1979年1月7日 プノンペン陥落(ヘンサムリン政権成立)
*ベトナム軍がその後11年間カンボジアに駐留
1979年1月末 *ポルポトを支援していた中国はベトナム軍によるカンボジア駐留と「華僑資本の圧迫」という事態を前に「懲罰」と称して17師団、約22万人の大軍をベトナム国境に集結させた。カンボジアに派兵したベトナムは国際的に孤立した。このときベトナムに対しアメリカ主導の経済的制裁体制がとられた。
1980年2月17日 中国軍は8万5千名の兵士によるベトナム侵攻を行った。
*中国、人海戦術で侵攻したが、アメリカ軍の残した近代兵器で戦うベトナム軍に苦戦した。中国軍は戦車隊を動員し、ベトナム国境を破壊した。中国軍は装備の遅れを認め近代化をすすめた。
*ベトナムは、1975年のアメリカ軍に対する勝利以降の10年間、国際的に孤立した。経済的にも破綻のぎりぎりまでに陥った。経済制裁とカンボジア駐留軍の戦費負担がベトナム経済をさらに弱体化した。
1985年3月 ソ連のゴルバチョフ政権(ペレストロイカ)
1985年6月 ベトナム共産党中央委員会「経済政策の転換」
*中央管理システムの解体。補助金システムの撤廃。現物支給を停止。 現金支給へ
1986年12月 ベトナム共産党第6回党大会 「ドイモイ」(刷新)が国家目標となる。
「ドイ・モイ」により経済好転(開放政策)
*「ドイ」は変える「モイ」は、新しくするという意味(刷新)

1986年から始められた改革・開放政策
@個人の努力を発揮する  
A国家計画経済より市場経済へ(命令で動くのではなく経済の法則によってそれぞれ主導的に行動すること)
*1976年以来・・・南部の社会主義化に対し華僑商人たちの反発を招いた。そこで、大量の難民(ボートピープル)が発生した。
*農業の集団化・・・農民の不満を招いた。
*1977年〜78年  干ばつ、水害などの天災。
*1978年 カンボジア侵攻、その後、中越戦争・・・国際的に孤立
*1981年 ソ連からの援助打ち切り
*1979年末 新経済政策(ドイ・モイのさきがけ) 個人経営や請負耕作を許可(現在では請負制度を実現。自分で生産し、税金を払えば自由とした。合作社は存在しているが、種・肥料・機械等のサービスを行っているだけにしている。農業生産は向上し、輸入国から1990年には100万トン、93年には200万トン輸出した。工業面でも、独立採算性で、個人企業もできていていい成績を上げている。
・・・・農業総生産向上

*1982年 都市部のインフレ、非合法の商売・密輸横行(マイナス要求めだつ)・・・取り締まり強化。農民は、農作物の出し惜しみ、消費意欲減退、経済活動停滞。
1986年 市場経済の導入。個人の所有権の認可。独立採算性の導入。海外からの送金の自由化。西側からの資本や技術導入も許可。外国からの投資も急増。
1989年9月 カンボジアからベトナム軍撤退
1990年 ベトナム経済危機的な状況を脱出。
1991年11月5日 カンボジア問題をめぐる和平協定調印
1991年11月18日 ベトナム・中国の国交正常化。
1992年 新憲法発布 市場経済導入、私有制と私的経営の自由、外国企業との合併事業の承認外国企業の資産は国有化しない。ドイモイが国家の基本政策と明文化(ドイモイ政策前進)
1994年 アメリカがベトナムに対する経済封鎖を解除。西側諸国の経済援助にはずみがついた。日本とベトナムの関係も親密度を増した。
1995年 米国との関係を正常化、ASEANに加盟(東南アジア諸国連合)
1996年 ASEAN自由貿易地域(AFTE)に加盟
1998年 APEC(アジア太平洋経済協力会議)にも加盟
2000年12月2日成田-ホーチミン市の直行便運行
2002年7月1日 東京-ハノイ間直行便就航
2002年12月24日 仙台空港発ベトナム行き「旅行団出発」



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