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ベトナム見聞録

ベトナム紹介
「インドシナ半島について」
 参考図書・・・地球を旅する地理の本(大月書店)

 アジアの南部にあって、インド半島の東にある。インドとシナ(中国)の間にある半島をインドシナ半島という。

 19世紀後半にフランスがベトナム、ラオス、カンボジアを植民地としてフランス領インドシナと呼んで、この三国の範囲をインドシナということもある。この地域は、インドと中国の二大文明に接する位置にあり、歴史的には周辺大国の政治や文化からたえず影響をうけていた。

 インドシナ半島の平地の民族で、最も古く国をつくったのは、モンゴロイド系のモンクメール族で、紀元前後のころから七世紀にかけて国家を形成した。メコンデルタを中心にフーナン(扶南)国とよばれた。彼らはインド系植民者と混血し、その支配を受けて、バラモン教、仏教、サンスクリット語などをとりいれた。また海路、インド、中国、ローマとも交流した。

 その後、メコン川中流域からおこったクメール族が9世紀から15世紀にかけてカンボジアを中心にメコンからチャオプラヤ川にわたる広い範囲にクメール王国をつくり、アンコールに都をおいた。かれらもインドの影響を受けながら強力な王権を築き、12世紀には、アンコールワット寺院を造ったが14世紀になると新興のタイ王国に攻撃されて力を失った。

 タイ族は、はじめは中国の長江流域にいたが、のちに雲南に移り、9世紀頃中国の圧力を受けてさらに南下した。そして、13世紀にメコン中流にいたり、先住のクメール族を破って、平原に進出し、チェンマイを都とした。カンボジアやインドの文化を取り入れて王国を築いた。14世紀にはアユタヤに都を移し、クメール族を東に追った。

 なお、ラオ族は、タイ族の一支族で、メコン川にかかるコーンの滝より北に住む。また、中国との国境付近にも多数のタイ族が住んでいる。
 ベトナム族は、タイ族よりも早く中国の広州方面から南下して、トンキンデルタに定住し、「越(えつ)」という名の王国をつくっていた。彼らは、紀元前二世紀頃漢に圧迫され、中国仏教や漢字に代表される漢文化の影響を強く受けた。
 しかし、中国の支配には抵抗し続け、10世紀にいたって独立した。その後ベトナム族は南へ向かい、17〜18世紀には、クメール族の住むメコンデルタに進出し、19世紀はじめに中部ベトナムのユエに都をおいた。この「頑(グアン)王国」を中国は、越南(ベトナム)と呼んだ。このベトナムには、19世紀後半、フランスが宣教師に対する圧迫を口実に侵入し、メコンデルタを直轄植民地とした。ついで、カンボジアを保護国とし、さらに安南(中部ベトナム)トンキン(北ベトナム)を19世紀末には、ラオスおも保護国としたこれが仏領インドシナである。

 フランスは、ベトナムに炭坑を開発し、ゴム樹などの農園を開くと共に、独立運動を弾圧し、貧困か政策をとった。また、カンボジアとラオス、タイに侵入してきたイギリスに対する緩衝(かんしょう)地帯として後進的な農業国のままにおき、そこではベトナム人を下級役人として使っていた。

 1940年仏領インドシナに侵入した日本軍は、1945年3月フランス植民地政権から権力を奪い、ベトナム・ラオス・カンボジアを独立させた。しかし、これは、国際的に認められるものではなかった。

 当時の日本は、すでにアメリカに制海権、制空権を奪われ大量の食料の現地徴発を行った。そのため、平時でもメコンデルタ唐の米の移入に依存していた北部のトンキン地方を中心に深刻な飢饉が起こった。この時餓死者は200万人にのぼったという。この時ベトナムの人々は日本軍に鉄砲で殺された人はなかったが食料を取り上げられて、1年間に100万人以上の死者が出た。

 日本との戦いにより「戦わずに支配されて100万人以上の死者が出るよりは戦って独立を手にする方が犠牲者の数が少ない」という教訓を得た。1941年に結成された独立同盟(ドックラップドンミン、ベトミン)は、日本軍占領下で反日抵抗運動を行った。日本の敗戦後、1945年9月2日ハノイでホーチミンを主席とする「ベトナム民主共和国」の独立を宣言した。

 その後、戻ってきたフランス軍との間であらたに独立戦争が始まった。1954年7月にジュネーブ協定が結ばれたが、このとき大国の介入でベトナムは北緯17度線を境に2分され、2年後に総選挙を行って統一ベトナムをつくることになった。一方、ラオス、カンボジアでは、温存された王政のもとで、実質的な独立へと歩むことになった。ところがベトナムでは、アメリカが協定に反対して南ベトナム政府に軍事顧問団を送り、総選挙の実施を拒否し続けたため、南北の統一は不可能になってしまった。これに対して、1960年に「南ベトナム解放戦線」が結成され、南ベトナム傀儡(かいらい)政権打倒のための戦いが始められた。アメリカは1964年に北ベトナムへの爆撃を始め、1965年から最大時50万人にのぼる兵力を送り込んだ。米ソ、米中、中ソ対立などの世界的な緊張のなかで進められたこの戦争は、アメリカ軍の爆撃による被害はもちろんのこと、中部ベトナム・ソンミの大虐殺事件やメコンデルタのまかれた大量の枯れ葉剤による痛ましい障害者の発生など、ベトナムの人々におびただしい犠牲をしいるものとなった。

 しかし、アメリカは勝利を得ることが出来ず、1973年3月ベトナムから撤退した。日本国内でも世界各国でもアメリカ国内に於いてもベトナム反戦運動は盛り上がりアメリカは、手を引かざるを得なくなった。

 「はじめアメリカでは、ベトコンという悪いやつがいるからこれをやっつけるのは正義だ」と教えられてきた。

 アメリカの兵士がベトナム農村に行ってみてベトコンといわれている人々を捕まえてみるとベトコンから救ってやるはずのベトナムの農民であった。米兵が正義の行為と信じてベトコンを射殺すると民衆は憎しみの目で米兵を見ていた。米兵の中に少しずつ動揺が現れた。悩んだアメリカ兵の中に戦争忌避を行う人々が現れた。

 日本にやってきた米兵の中に戦争忌避のために国外亡命を求める人々が出てきた。日本にもこの人々を支援する組織が出来、世界的な規模でベトナム反戦運動が広がった。フォークシンガーやロックンローラーの中にも反戦歌を歌う人々が現れ反戦運動は草の根の広がりを見せた。

 米軍がベトコン掃討作戦としてジャングルにまいた枯れ葉剤などの影響で奇形のカエルや奇形の蛇が発見された。そしてついに、人間にまでそれが現れ、ベトちゃん、ドクちゃんのようなシャム双生児が紹介された。

 アメリカへの非難は世界中から起きた。米国内でもベトナム帰りの青年が精神的に異常をきたすものが増え、反戦運動が盛り上がった。

 アメリカは、国内外からの批判と泥沼化したベトナム戦争に手を焼いたアメリカはついに撤退することにした。
 その後、ベトナムは南北間で戦いを続けたが、1975年4月サイゴンが解放軍の手に落ち、長かった戦争が終わり、翌、1976年南北が統一した「ベトナム社会主義共和国」が成立することになった。

*ベトナムは、北部・南部では、風土がかなり異なる。しかし、ベトナムの海岸全域にベトナム人が分布している。
 北部のトンキンデルタは、歴史も古く、河川沿いに堤防がつくられ灌漑水路が発達している。雨は夏の他2〜3月にも降り、米は2期作も可能だが人口が多いので不足気味である。中部ベトナムは、山地が多く、北東のモンスーンの時期に雨が降る。南部のメコンデルタは、19世紀にフランスの資本で開拓され、河岸や河口に集落が発達した。海岸にはマングローブの密林が続き、魚、エビ、かになどの宝庫となっている。陸地に入ると背の高い椰子の木やびんろう樹、ゴム樹などさまざまな広葉樹の林が広がる。高温で雨が多いため緑の木の葉とは対照的な赤色のラテライト土が地表を覆っている。

 ベトナム北部では抗仏戦争の最中に土地改革が行われ地主制度が廃止されていた。1958年からは3ヶ年計画で農業の集団化を実施し、農家の8割以上、耕地では7割が「初級合作社」に組み込まれた。1960年からは、5ヶ年計画に基づく経済開発をすすめ、投資の半分近くを工業に向けて、国の重工業化の基礎を築こうとした。ところが、1964年からアメリカの爆撃をうけ、工場、発電所、灌漑水路、道路などがその標的となって破壊されたため、計画はほとんど実行できなかった。こうしてベトナムは1976年まで戦時経済となり、ソ連や中国をはじめ多くの国からの莫大な援助によって支えられることになった。この戦いの中でベトナムは日本共産党機関紙「赤旗」と日本共産党の自主独立路線の理論を高く評価し、ソ連や中国からの圧力をはねのける理論的なうらづけと支援になったという。

 1976年の南北統一後、ベトナムは全土の社会主義化をめざして、南部の農業の集団化、私営商業の公営化を計画した。しかし、これらは、農民と商工業者の反対にあい、南部の集団化は農家の1割にもみたず、華僑(華人)中心の商工業者の中では、国外に逃亡するものが増加した。

 1976年からは、第2次五ヶ年計画が実施されたが農業生産の年増加率は目標8〜10%に対して、実績は1.6%、工業生産の年増加率は16〜18%に対し実績は0.6%にすぎず、戦時中の停滞から回復することが出来なかった。  さらに1970年代後半には中国との戦争やカンボジアへの介入で多くの国の援助を失いベトナム経済は深刻な状況に陥った。

 1970年代末から農業集団化の見直しがおこなわれ、農業合作社は、急速に解体して生産物請負制度にかわり、農家は請負を越えた分を自由に処分できるようになった。農産物の政府買い上げ価格の五倍近い大幅な引き上げも行われた。一九八一年には、国営企業も生産物の自主的な処分ができるようになった。しかし、これらは、消費者物価を抑えるための国庫補助金制度によって支えられていたため、財政負担が大きく、インフレーションにも見舞われて経済問題は一層深刻になってしまった。

 1968年にベトナムは一つの転換を迎えた。十二月に開かれたベトナム共産党大会で「社会主義の建設は歴史的に長期にわたる過程であり、ベトナムは社会主義への過渡期の最初の段階である。」として、「民をもって礎(いしずえ)」としながら改革を漸進的にすすめるという、「経済思考の刷新(ドイモイ)」をうちだした。具体的には「農業・日用品・輸出品」の三つに投資を集中し、私営の小規模興業を活用するというものである。また1988年には新外資法を施行し、100%外国資本の企業を認めた。

 1989年にはカンボジアからの撤兵による軍事費の減少もあり、生産は全体として向上しつつある。そしてさらに,ASEAN(東南アジア諸国連合)への接近もはかろうとしている。こうしてベトナムは、資本主義世界経済に参入はするが、民族の独立をたもち、過度の不平等を生まないような経済発展を追求することを一つの方向として考えている。



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