松島塾
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ベトナム見聞録

4日目 フエ市内研修
5日目…2002年12月28日(土)日程
専用バス
フエ ………… フエ
宿泊フエ

>>> 「午前」フエ市内研修
(1) フエ市内研修
1. ホーチミンの母校(クオック・ホック高校訪問)
 ベトナムで最も有名な高校である。1995年に創立100周年を迎えた国立高校。卒業生には、ホー・チ・ミンをはじめ、ディエン・ビェン・フーの戦いで活躍したフォ・グエン・ザップ将軍やファン・ヴァン・ドン首相などがいる。場所は新市街をフーン川沿いに走るレ・ロイ通りの10番地。目印は赤門。青緑の木立に囲まれた広々としたキャンバスが広がる。雰囲気はのどかで白いアオザイの女子高校生の通学する姿がすがすがしい。
 日本の旧制高校といった雰囲気で建物で高校というよりは大学の雰囲気であった。もとは男子高校であったが現在は男女共学だという。男女共学といっても実際は併学で男女は別別に学習している。卒業証書は同じ学校の卒業になる。
 訪問した日は、この学校の試験の人ぶつかっていて高校生との交流会はもてなかった。まず、校長教頭と会見して教育方針や現状をきいた。この高校はエリート校でほとんどが大学に進学するということであった。夜に高校生のかわりに来たのは日本語を学んでいるという外国語学校の学生と小学校の先生であった。

クオック・ホック高校
 ホーチミンの母校「クオック・ホック高校」を訪問したときに、フエ市の女性広報担当者がいろいろと説明してくれた。1995年で、創立100年というから2002年は、107年目にあたる。
 国立高校で、卒業生には、ホーチミンをはじめ、ボー・グエン・ザップ将軍(ディェンビェンフーの戦いで勝利した)やファン・バン・ドン首相などがいる。その他、科学者・政治家からすべての分野にわたる有名人が構内に写真で飾られていた。在校生の中でも優秀な学生の写真があって世界大会の優秀者(数学等)が飾られていた。フエ市の新市街をフーン川沿いに走るレ・ロイ通りの10番地にある。目印は赤門。「青緑の木立に囲まれた広々としたキャンバス、白いアオザイの女子高校生の通学する姿がすがすがしい」と書いてあったが、当日は試験中、校内では高校生の姿はほとんどみることができなかった。
 この学校は、優秀な学生しか入れないが、それをさらに優秀な学生のコースと普通の学生のコースに分けている。今後さらに、自然科学と社会科学のコースに分ける予定だという。

 ベトナムでは、兵役の義務がある。18歳から2年間軍隊に入る。大学生は、しばらく兵役の免除がある。「クオック・ホック高校」は、学生が1500名、教師は150名、優秀な生徒のクラスの生徒数は30人学級。普通クラスの生徒は1クラス35から40人。校長の説明によれば「成績の悪い生徒はいない」という。「入学時に高い学力をすでにつけている」「他の高校では留年もあるが、この高校では留年者はいない」といいきる。普通クラスから優秀クラスに移ることはあるかという質問に対し「二つのパターンがあり、10人くらい交換がある」という。「上のクラスに上がるのは簡単ではない」学年全部で53クラスあるが、優秀クラスは24クラスある。フエ省の高校進学率は、中学生の80%であるという。高校から大学への進学率は15%だが、この学校では、90%の生徒が大学に進学する。あとの10%もみずから進んで難しい専門学校に入る。就職するものはほとんどなく100%の進学だという。
 この学校の広さは、日本の高校でこれほど立派なところはない。仙台一高や仙台二高よりもずっと広く立派である。旧制二高(東北大の前身)と言ったほうがよくわかる。寄宿舎もあり広々とした落ち着きのある立派な校舎である。男女共学だというが実際は、男女併学になっている。ホーチミンの入学したころ、高級官僚や金持ちの息子だけが入る学校だった。ホーチミンは貧しかった。しかし、ホーチミンは非常に優秀だったので、このエリート学校では、入学を認めざるを得なかったという。

 現在、高校の授業料は、3年生で3万ドン、2年生で2万ドン、1年生で1.5万ドンだという。フエの学生の学習意欲は旺盛である。しかし、山岳地帯にはまだ学校のないところもある。この学校では、フエ以外のベトナム中部から学生たちが入ってくるので寄宿舎には120人くらいが生活している。合格者数600人に対し受験者数は3000人と5倍の競争率なので優秀な学生しか入学できないのだという。学生たちの自治活動について質問すると「被災地に支援に行ったり、自分たちで独自の活動をしている」という。自治活動についての認識がわれわれとは少し違うようである。「青年共産主義同盟があってボランティア活動や赤十字の仕事をしている」ここの卒業生はどんな職業を選択しているのかと聞くと「自然科学のほうに進みたい。エンジニア、建築家、医師を目指している学生が多い。社会科学のほうが少ない」という。
 高校に入れなかった人は「職業訓練校や専門学校」に行くという。ホーチミンは、「学校では愛国心を学び中国の孫文や(りゅうけいちょう)の本を愛読し独立の道を探った」のだという。


2. 「ホーチミン伝」(1)
 ホーチミンはベトナム中部のゲアンで生まれた。本名をグェン・シン・クンという。父はグェン・シン・サックで科挙試験の2級に合格したが、官職に就くことを拒み子供たちに勉強を教えて生計を立てていた。しかし、フランス植民地政府に反仏の人物であるとして南部に追放された。教育の重要性を知り日本に留学生を送る東遊運動を進めていたファン・ボイ・チャウは父の友人であった。ファン・ボイ・チャウは日本に送るように進言したが父はクンをフランスに留学させたいと思っていた。クンはフエのリセ(中・高等学校)「クオック・ホック高校」に進学した。その後、南部に移り1911年フランスの貨客船のコック見習いとして乗船しヨーロッパに脱出した。
 クンの見たものは、アフリカのフランス植民地の現地であった。クンはベトナムはなんとしても独立しなければならないという思いをいよいよ強くした。パリに住むようになってからマルクス・レーニンの理論に傾倒した。レーニンの帝国主義論は、ヨーロッパ諸国の植民地経営を批判し、追求していたからである。

クンは、グエン・アイ・クオック(阮愛国)と改名した。

 1920年フランス社会党が分裂した大会で、グエン・アイ・コックは、新しく生まれたフランス共産党に入った。その後、モスクワに行きコミンテルンの工作員となり、1930年、ベトナム共産党の創立に重要な役割を果たした。しかし、このとき「ベトナム革命家」「インドシナ革命家」をめぐって対立があり、グエン・アイ・クオックは、「ベトナム民族の独立へ民族民主革命をすすめる」という「ベトナム革命」路線を選択した。
 1941年、30年ぶりに中国からベトナム領内に戻った。秘密基地はベトナムと中国の国境地帯のバカボの洞窟であった。日本軍がインドシナに進駐し、アジアの戦争が始まろうとしていた。ホー・チ・ミンは中国雲南に基地を持っていた米情報機関でCIAの前身,OSSの援助を受けていたが、アジアの激動を予知し、この機に乗じてベトナムの独立を図ろうとした。
 1941年5月19日パクボの秘密基地で共産党中央委員会を開き「ベトナム独立同盟」(略称ベトミン)を結成した。「救国」をスローガンとする民族統一戦線であった。共産党を主導とする組織であったが広範な民衆の支持をうるためにフランスの植民地支配を打倒して独立を獲得したいと願うあらゆる階層を網羅した戦線だった。ホーチミンは32から76もの偽名を使ったといわれる。それほど追求が厳しかったことを意味している。
 ホーチミンは、一時、中国共産党と連絡を取ろうとして中国に入り国民等治安機関に逮捕された。しかし、1944年10月釈放されて帰国し、武装闘争に踏み切った。1945年3月の日本軍の武力行使によるフランス軍の武装解除をきっかけに武力闘争を拡大させた。日本は、敗色濃い8月10日、連合軍に対し、ポツダム宣言を受諾すると通告した。このニュースを短波放送で聞いたホーチミンは、「革命にとって千載一遇のチャンスが来た」と判断した。タンチャウのベトミン司令部で全国抗戦委員会を設立し、ベトナム民主共和国の樹立をはじめとする十大政策を決定した。そして直ちに総放棄を指令し、8月15日に日本が降伏するとハノイでベトミンが政府機関を占拠した。中部では、阮朝・バオダイ(保大)帝に退位を迫り、南部では、北の方針によって独立への記念集会を開いた。これだけの措置をとったうえでホーチミンら指導部はハノイへ急ぎ、ホーチミンは独立宣言の草稿を書いた。ハノイ36街ハンガン通りにその家は現有している。そして9月2ヒバディン広場における独立宣言の発表にこぎつけた。
 ホーチミンのこの素早い対応によってフランスの復帰をはばんだ。連合国軍は、北部は、中国国民党軍、南部は英印軍が管理していた。ホーチミンはフランスが植民地支配に戻ってくることはわかっていた。だから急いで内外に独立宣言を発表したのである。このようなすばやい動きと同時に広範な民衆の力をまとめるための「大団結」をホーチミンは大事にした。
 入念な計画、細やかな対策、無理しないやり方は民衆からの指示と信頼を得た。1969年9月2日ホーチミンは米国との戦いが頂点に達したときこの世を去った。その時、三通の遺書を残した。「戦争で負傷兵となったもの、殉職したものの父母・妻子で困っているものに生計の道を立てられるようにして、彼らが飢えたり、凍えるままに放置してはならない。戦争に勝ったら農業税を1年間免除すること。遺体を火葬にして遺灰を3つにわけ、北部・中部・南部の人たちのために、それぞれの地域の丘陵に埋めてほしい。丘陵には、石碑、銅像を建てず、訪問した人たちが休むことができるように、建物、記念に植樹できるようにしてもらいたい。日が経てば森林となるだろう」と。
 しかし、ホーチミンの意思は無視され遺体は保存され大理石の巨大な廟が建てられた。
 また、ホーチミンが死去したとき、死去した日として発表された日は、実際の日和1日遅れた三日となっていた。ホーチミンのあとを継いだのは、レ・ズアン書記長だった。レ・ズアンが死去した翌年、1986年12月第六回党大会でこの遺書の改竄(かいざん)が明らかになり、レ・ズアン路線は否定されドイモイ政策の推進が明らかにされた。ベトナムは新しい時代を開きつつある。

3. ベトナムの教育【その2】
・・・教育目標 「よく学び・良く教える」これがベトナムの教育目標だという。日本なら「よく学びよく遊べ」である。子どもたちの目標だけがあって教師の目標は示されていない。日本では教師が良く教えるのは当然のこととされている。ベトナムでは、あえて目標として挙げている。「社会主義を国是とする国」では、教育が一番大事になる。何を教えるか、何を教えたか。子どもたちはどうなったか。「良く教えるために研修が繰り返されている」という。昔のノートで古くなった知識で自分の学んできたことをそのまま教えることは出来ない。国家の目指す方向に向かって「良く教える」ことが求められている。南の知識人は、再教育をうけ社会主義実現のために学習させられたという。南の知識人の多くが国外に脱出したともいう。ベトナムは儒教道徳の行き渡った国で、知識の高いことが社会的地位の高いことと同じになっていた。だから今でも進学熱は高い。高い教育を受けて良い暮らしをしたいと願うのである。しかし国家の目標は、社会主義実現のための人間づくりである。現実は貧富の差が拡大し物質が豊富に出回っている。この中で新しい国づくりに邁進する。公明正大な人民全体のことを常に考える高邁な精神が要求される。これが出来ないと腐敗堕落した官僚が増えれば国家は滅亡する。ベトナムがなんとしてもやり抜かなければならないのが教育改革である。教員の賃金が極端に安いのも「南の知識人男性」の影響を学校から排除するためかと勘ぐりたくもなる。しかし公務員の医師の給与も安いというから、それだけではなさそうである。教員のほとんどが若い女性で、誇り高く子どもたちに権威を持って指導している。女の子の多くが先生になりたいという。男の子はエンジニアになりたいという。
 南の政府側にいた人や軍人・知識人は共産党による「再教育」をうけさせられ、農村に下方されたという。また胃までも公安の監視の的になっているともいう。そのような生活に耐えられずに国外に脱出した人や脱出を試みて失敗した人が何人もいるという。南で生まれ、南の高等教育を受けた人の子どもであるが故に、危険人物の家族とみなされ、高等教育を受ける選考基準からはずされ、大学や専門学校への進学の道を閉ざされた人も少なくないという。しかし、ドイ・モイ政策以降、一度海外にでた人々が戻ってきているという。ベトナムの経済を支えているのは、華僑と越僑(ベトキョウ)である。越僑(ベトキョウ)は、華僑と同様に国際的なネットワークを持っている海外にあっても故郷を忘れず、ファミリーとして結束する。したがって故郷に世界中から送金してくる。この人々の経済援助と世界中の資本を巧みに導入しようとしている。したたかなベトナム外交を展開する。価値観が多様なとき、期待できるのは教育の力による方向付けだけである。教育を間違えばこの国の未来は危なくなる。教育こそがこの国の未来を保障する。

4. ホーチミン伝(2)
 ホーチミンは、1908年フランスに対し農民運動を支援して抵抗した。そのためフランス官憲の捜査の手が回り、それ以来30年間海外で独立運動・革命運動のあり方を探った。各地をめぐりながら祖国の独立に胸を焦がしたホーチミンという名前は、1942年に改名してつけたものである。それまではグエン・アイコック(阮愛国)と名乗っていた。
 愛国者の阮(グエン)である。30年間諸国を巡り1942年にベトナムに帰ってきた。そのころすでにベトナムを独立国にするにはマルクス・レーニン主義の道しかないと確信していた。ホーチミンはフランス共産党の創立大会に参加する機会を得て国際共産党員となった。そして、フランス・イギリス・アメリカ、ソ連、アフリカ、中国、インドシナ各地、アジア諸国を歴訪した。世界の情勢をつぶさに見、事あるごとにベトナムの現状を世界に訴えつづけた。
 ホーチミンの父親は高級官僚となるために科挙試験を受け続けた。科挙試験は、3年に1度行われた。ホーチミンの父親は3度試験を受けてやっと合格している。その間、貧しい生活に甘んじなければならなかった。
 その父親は、当時のベトナムの国情を「ベトナムは独立国とは言えず、従来は中国(清)の支配を受け体面だけは、王となり、王の高官ということになっていたるが、自分たちでは何も決定できない悲しい存在だった。
 さらに後にはフランスの支配を受け独立国といえるような状況ではなくなっている」となげき、当時父が聞いてきた言葉を残して いる。それは「官場是奴隷中之奴隷又奴隷」ということばであった。
 奴隷は日本では「どれい」と読むがベトナムでは「ぬれい」と発音する。ホーチミンは父の苦労を見ていつの日にか独立の国にならなければならないと思い続け独立の道を探り続けた。
 ホーチミン以前にもベトナムの独立のために奔走した人々はたくさんいる。そのような人々の血のにじむような活動の積み重ねによってベトナムの独立は成り立っている。たとえば「東遊運動」がある。日本が日露戦争でロシアに勝利したのを知ってファンムジョン先生は日本にベトナムの青年を留学させた。「日本の医師がこのことを知って自分の全財産を売却し当時のお金で1700円の資金を作った。こうしてその金を基に奨学金を作り東遊運動を支援した。」とベトナムでは伝えられている。
 ベトナムの官吏登用試験は難しい。武官は手柄を立てれば認められるが、文官は試験を通らなければならない。文官の試験では王室に対し失礼なことがあれば、死刑にされることもあった。何が失礼かというと花屋さんの市場は、花のことを「ファ(ホア)」という。そこでこの市場を「ドンファ」と呼んでいたが、王妃の名前がファなので勝手に使用することができない。そこで「花屋市」は「ドンファ」ではなく「ドンバア」と名称を変えた。皇族の名前をそのまま使用してはならないのであった。

 試験では知識の量だけでなく、皇族に対する敬意を忘れてはならなかった。このような父の姿を見てホーチミンは「独立の国の平民は奴隷の国の王よりも人間的だ」と考えるようになった。



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はじめに
1日目(ホーチミン市)
  ┣ ホーチミン市紹介
  ┗ ホーチミン市の交通事情
2日目
  ┣ クチのトンネル
  ┗ クチのトンネルについて
3日目
  ┗ 午後 ホイアン市内視察
4日目
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