松島塾
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ベトナム見聞録

3日目 ホイアン市内
>>> 午後 ホイアン市内視察
(5) 来遠橋(日本人橋)
 16世紀(1593年)に造られた。日本人街と中国人街を結ぶ屋根付きの橋。日本人が設計し、中国人が出資し、ベトナム人が建てたという。橋上には船の安全を祈願する祭壇がもうけられ、橋の両端を猿と犬の像が守っている。それはこの橋が、申(さる)年から戌(いぬ)年にかけてつくられたからだという。
 遠い外国からやってくる船の停泊地に近かったので来遠橋と呼ばれた。修復した年のことは、天井の梁に書き込まれているからはっきりしているが、建造したときのことは記録されていないという。ホイアンには、日本から角倉了以の手のもの、茶屋四郎次郎の手のものなどこの地に沢山往来し、一族のものを住まわせていたものもいた。文書や絵にもその様子がのこされている。京・大坂・堺の商人たちが出店を築き日本人町を構成した。1600年代には日本人町が栄え、そのころ日本人によって「遠来橋」がつくられたという。ホイアンの日本人町は17世紀初めに日本から御朱印船が沢山来るようになって誕生した。ホイアンの日本人町のことを目撃した記録は三浦按人(ウィリアム・アダムス)によって1917年に書かれている。当時日本人町にはおよそ数百人が住んでいたという。茶屋新六一行は日本の長崎を出帆し40日間かかってホイアンにたどり着いたという。ホイアンの日本人町は長さ三丁あったと記録されている。そこには二階建て三階建ての家があった。

(6)ホイアンのハト笛売り
・・・ホイアンは世界遺産として登録されている町並みがある。「海のシルクロード博物館」というところがあって説明を受けた。昔の商家である。その道端で一人の男が地面にぺたりと胡坐(あぐら)をかき、土笛を売っていた。時々鳥の声のような土笛の音色を聞かせてくれる。ハト笛を売って生活を立てているのであろう。よく見ると右足がない。お尻が板の上にある。板の下に車がある。この車を自由にあやつって行動する。すぐ近くに車椅子があった。無口な男は人が来ると時々ピーピーと笛を鳴らす。 ハト笛は土色をした陶器の笛である。ざるの上に50個くらいの笛を並べている。

(7) 日本人墓地 「谷弥次郎兵衛の墓」
 日本人街で暮らしていた商人たちの眠る墓があるという。グェン・チューン・トーン通りの北。約1.5キロメートルの水田に点在している。幕府のキリシタン迫害を逃れて移住した弥次郎兵衛の墓は、祖国日本の方向に向けて建てられている。場所は大変わかりにくい。1689年に建てられたという。バスは田園の一本道を走っていく。田の中で水汲みをしている人がいる。その近くでバスが止まった。周りの田園風景が何となく日本の農村の風景に似ている。川があり、たよりも1メートルくらい川底が高い。天井川である。そこに水掻き道具で田圃の水をかい出す。このあたりの稲作は直播きなので、今は水は田の表面をぬらすくらいでよい。したがって、水をくみ出さなければならない。その仕事を二人の男たちが黙々としていた。挨拶すると明るい声が返ってきた。日本人がよく来るらしい。バスを降りるとコンクリートの道が田圃の中に出来ている。農道にしては狭いと思ったら日本人墓地に行くための道路だという。水田の真ん中に土盛りされ、周りをコンクリートで固めた谷弥次郎兵衛の墓があった。みなが参拝していると現地の人がベトナムに長い線香を持ってやってきた。いつもこの墓を管理しているのだという。自宅の近くにも日本人の墓があるのだという。いってみると人家の柵の中に「藩次郎の墓」があった。谷弥次郎兵衛の墓を掃除しているという人の家では、犬を2匹放し飼いにしており、豚がおり鶏も放し飼いにしている。奥さんらしき人が庭の片隅で竹細工をつくっていた。
 関帝廟には、日本考文覧具君の墓碑がある。五行山(ホイアンから北へ20キロメートル)には、石灰岩の洞窟を利用して造られた寺がある。寄進者のリストに中国人と並んで「日本栄七郎兵衛」等の日本名がみられるという。肥前磁器なども残っている。
 日本サムライは、信義に厚く約束を必ず守るということで王から信頼され木村というサムライが戦功が認められ藩王として迎えられ王の娘を妻としたという。そのベトナム人妻の墓が現在も長崎にあるという。ベトナムの北部はアンナン(安南)、中部はコウチ(交趾)・チャンパ(占城)とよばれていた。

(8)中国人虐殺記念(慰霊)塔
 今回の旅行では残念ながら見ることができなかった。日本人の墓のほど近くに、中国寺院がある。境内にあってひときわ目立つのが高さ三メートルの石碑があるという。正面には「民族正気」と記されている。この碑は、第二次世界大戦中の一九四四年〜一九四五年にかけて、ホイヤン・ダナンで十三人の華僑がスパイ容疑のため日本軍に殺害されたことを悼み建てられたものである。日本がベトナムに侵略したのは一九四〇年のことであった。泥沼化する日中戦争打開のため、連合国諸国から蒋介石に送られる物資や軍需品の輸送ルートを遮断するのが目的だった。当時ベトナムを支配していたフランスは、ドイツに降伏していたので日本のベトナムにおける要求を拒否する力はなく、ベトナムは日本の管理下に入った。ベトナムの人々は日本人は同じアジア人でアジアの開放のために戦っていると信じ、日本軍を応援し、フランスを追い出した。ところが日本軍はベトナム独立の支援をするどころか過酷な軍政を敷き、数々の残虐行為を行い大量の米を取り上げた。そのためベトナム中北部では、日本軍に鉄砲で殺されはしなかったが、百万人〜二百万人の餓死者を出したという。日本は中国とも戦争していたので華僑もまた敵と見なして弾圧した。


3日目の宿泊地は2日目と同じ



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  ┗ ホーチミン市の交通事情
2日目
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  ┗ クチのトンネルについて
3日目
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