松島塾
松島を愛する人のための教科書
ベトナム見聞録
「ベトナム」

***「ベトナム・ヴィエトナム・Vietnum・越南」いろいろな表記がある。

 越南は中国が「越」の南にある国として銘々した。誇り高いベトナムの人々は、越の南ではなく「南越」だと主張したこともあった。しかし長い間、使われてきた「ベトナム(越南)」が定着している。
 ベトナムは外敵との戦いの中でたくましく生き抜いてきた民族である。この国のわけの分からない不思議な魅力にとりつかれてしまう日本の若者も多いという。


 ベトナムで国民の信頼度の高いものが二つあるという。もちろん反論もあるであろうがまず聞いてみよう。一つは、国の指導的役割を果たす共産党。もう一つは仏教の坊さんだという。その思想や哲学のことを信用しているのではなく、どちらも愛国者たちの集まりだったからだという。南ベトナムの政治家たちはアメリカやフランスとつながって自分達の懐(ふところ)を肥やしてきた。しかし北の政治家たちは国民のために戦い自分の懐を肥やすことをしなかった。共産党は人民のために奉仕するといっている。坊さんたちは一生結婚せずに人々のために祈り、ベトナム戦争の時には焼身自殺までしてアメリカや南の政府に抗議した。彼らこそ真の愛国者だという。人民の信頼を裏切らないかぎりこの国は発展し続けるであろうとおもうともいう。ベトナムは今試練の時を迎えている。経済発展にともない莫大な経済的誘惑が転がっている。腐敗堕落の要因がごろごろしている。自由経済の中で社会主義の良いところをのばそうという理想がどこまで実現できるのか世界中が注目している。

 ベトナムは一年中、樹木が生い茂り、花が咲き小鳥がさえずる。果物が豊富で沢山の種類がある。お米は、南部では年に三回はとれる。人情は細やかでしたたかでたくましい。女性はアオザイが似合うように子どもの頃からしつけられ細身で健康である。ベトナム人のしたたかなたくましさは、その歴史を見るとうなずける。

アオザイ
 ベトナムを旅する基礎として、ベトナムの歴史を概観してみよう。ベトナム人の紀元はまだよく分からないところがある。しかし、紀元前4000年頃には、現在のベトナム人の祖先と見られる人々が現れている。メコンデルタのあたりにはクメール族が住んでいたが、17〜18世紀にベトナム族(きん人)の支配するところとなった。
 ベトナムは、2000年前から中国(秦・漢・隋・唐)と戦い、1000年間支配され、紀元968年に独立した。そのために知恵を使い、勇敢に戦った。 1257年、1285年、1287年の三度モンゴル軍の襲撃を撃退した。

 1407年に「明」の侵攻にあい20年間「明」の直轄領になった。1428年「明」軍を駆逐し再び独立した。1853年ナポレオン三世がスペインと連合してフエに侵攻したが、その時は陥落しなかったが、1859年にはサイゴンが陥落した。それ以来フランスの植民地支配に苦しんだ。
 1920年代の後半からホーチミンらによって民族運動が組織化され、1930年にホーチミンはベトナム共産党を結成した。

 ホーチミンは学校を卒業すると30年間、世界各地で各地の独立運動などを支援し、自国の独立のために必要なことは何かを学び続けた。第2次世界大戦が勃発し1940年にフランスはドイツに降伏した。

 ドイツのナチスがフランスでつくったヴィーシー政権は、日本のインドシナ進駐を認め、その代償としてフランスの植民地支配を日本に認めさせた。それ以来、ベトナムは、日本とフランスの二重支配を受けることになった。日本は1945年3月ベトナムを軍事管理下に置きフランスのインドシナ支配権を奪った。1945年8月日本の敗戦が決まると9月2日、ホーチミンは「ベトナム民主共和国」独立を宣言した。しかし、フランスはこれを認めなかった。ドイツに敗北したフランスには昔日の面影はなく日本軍の武装解除も連合国の捕虜の解放もできなかった。自力でインドシナを支配しきれなかったフランスにかわって、中華民国とイギリスの軍隊が進駐した。かくして北緯16度線でベトナムを2分割し南北ベトナムが出来た。

 1946年11月ハイフォンのフランス軍がベトナムの北部に侵攻した。ベトナムは1954年ディェン・ビエン・フーの戦いでフランス軍をうち破った。1954年ジュネーブ協定で北緯17度線を軍事境界線として南北に分断された。2年後に選挙で統一の是非を問うことになっていたが、アメリカの援助により南ベトナムのゴ・ジンジェムは統一選挙を拒否した。1960年南ベトナム解放民族戦線が誕生しベトナム戦争が始まった。ここからは、多くの人々が見聞きしたことでもあるので資料を提供するにとどめる。旅の中で枯れ葉剤をまかれ、爆撃をうけて焦土と化したベトナムが今どうなっているのか確認してほしい。その土地に新しい樹木を植え再び森林を作り上げたベトナムの底力を見てほしい。ベトナムにはかつて樹齢数百年と見られる巨木が沢山あった。ところがベトナムの各地に今は樹齢15年から20年ぐらいの細い樹木があるだけの所が多い。メコンデルタの村はそれほどすさまじい攻撃を受けたことになる。

 ベトナムは、「浦島太郎の話にでてくる竜宮城の原型になった国ではなかったのか」という説もある。乙姫様のごちそうや鯛や平目の舞い踊りは、現代のベトナム旅行の目玉にもなっている。しかし、現実のベトナムは、アメリカ帝国主義と戦い、社会主義を国是としながら市場経済の中でドイモイ政策を実行して、すさまじい発展をとげつつある。今回2002年12月ベトナムを旅行する機会を得てそこで見聞してきたことを報告したいと思う。

 ベトナムのことについてすでに古い記録がある。 マルコ=ポーロの東方見聞録である。ジパングの記録につづいて、ベトナムの紹介がでている。中部ベトナムのチャンパ(占城国)の紹介である。マルコ=ポーロは、モンゴルの攻撃に対し、ジパングとチャンパ(当時のベトナム)がどう戦ったか、詳しく紹介している。ジパング攻撃に失敗したモンゴルの二人の将軍は本分を尽くさなかったとして共に死刑に処せられたことも記録されている。

 チャンパについては、「莫大な砂金を産すること、穀物が豊かなことが記されている。チャンパは、モンゴルの攻撃に対し、正面からの対決を避け、巧みな外交と堅固な城塞の守りによって対抗した。モンゴル帝国(元)に対し、チャンパは、毎年莫大な沈香と馴象20頭を貢物として差し出し藩臣という立場をとることによって正面対決を避けた。ベトナムの人々は、将軍の知恵の力で勝利したという。

 チャンパでは、容姿の良い美人は必ず国王に目通りした上でないと結婚できなかった。王は娘が気に入ると自分の妻にした。気に入らない女性は程度に応じて金銭を与え各自に夫を求めさせた。チャンパ王は、男女合わせて326人の子があり、王子が150人以上もいた。」黒檀の木の森もいたるところにあったとも記されている。今、黒檀は、ベトナムにほとんどなくなり国境地帯に少し残っているだけだという。



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ベトナム見聞録
はじめに
1日目(ホーチミン市)
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  ┗ ホーチミン市の交通事情
2日目
  ┣ クチのトンネル
  ┗ クチのトンネルについて
3日目
  ┗ 午後 ホイアン市内視察
4日目
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